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01_キ102
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ102とは、キ45(二式複戦屠龍)をベースとして開発された高性能双発機で複座型の襲撃機タイプ、単座の高高度戦闘機タイプが存在した。制式採用はされていなかったが実戦部隊にも配属された。高高度戦闘機タイプは実戦でB29撃墜も記録されている。

 

戦闘・襲撃機 キ102 〜概要〜

 

性能(乙型)

全幅 15.57m
全長 11.45m
全高 3.70m
自重 4,950kg
最大速度 580km/h(高度6,000m)
上昇力 5,000mまで6分54秒
上昇限度 10,000m
エンジン出力 1,500馬力
航続距離 2,000km
武装 57mm機関砲1門、20mm機関砲2門、12.7mm旋回機関砲1門
爆装 500kg爆弾(または魚雷)1発または
   250kg爆弾2発または
   50kg爆弾4発または
設計・開発 土井武夫 / 川崎航空機

 

開発

 

キ96として設計開始

 キ96は、1942年8月、キ45(二式複戦屠龍)の性能向上型としてキ45兇箸靴椴Ψ海ら川崎航空機に開発が指示された。これに対して川崎航空機は土井武夫技師を設計主務者として開発を開始した。4ヶ月後の12月に計画番号がキ96に変更されている。

 このキ96は防空を目的とした双発戦闘機であり、操縦席はキ45兇醗曚覆蠱浦族修気譴拭1943年6月に設計完了。9月には試作1号機が完成.主翼はキ66試作急降下爆撃機のものを翼面積を増大させた上でそのまま流用、翼面荷重は176.4km/屬箸覆辰拭H動機はハ33/62(1,500馬力)で、プロペラは直径3mハミルトン定速式3翅が採用された。武装は前方固定方として機首に37mm機関砲(ホ203)1門、胴体下面に20mm機関砲(ホ5)2門を装備している。

 性能は、試作1号機は最高速度600km/h(高度6,000m)。上昇時間が5,000mまで6分。実用上昇限度11,500m。高度10,000mまで17分という新記録を樹立したが、双発戦闘機であっため単発戦闘機のような軽快さがなかったため不採用となった。

 

キ102に変更

 1943年4月、キ96を複座襲撃機に改修することが命ぜられた。さらに6月には、B29迎撃用の高高度戦闘機に改修が命じられる。これらは、高高度戦闘機型をキ102甲、襲撃機型はキ102乙と命名され、土井武夫技師を設計主務者として開発を開始。1944年1月には設計完了。同年3月試作1号機が完成した。同月キ102丙夜間戦闘機型の試作命令も発令されている。キ102丙は1945年5月に設計完了したが6月28日の空襲で製作中の試作機は破損、そのまま終戦となった。

 

乙型(基本型)

 キ102乙(襲撃機型)は、エンジンにハ112供1,500馬力)を採用。機首に57mm機関砲(ホ401。携行弾数16発)1門、胴体下面に20mm機関砲(ホ5。携行弾数各200発。)2門、後席には12.7mm旋回機関砲(ホ103)爆弾架には500kg爆弾1発、または250kg爆弾2発、50kg爆弾4発を搭載することが出来る。最大速度は580km/h(高度6,000m)、上昇時間は5,000mまで6分4秒、実用上昇限度は10,000m、航続距離2,000kmであった。215機が製作され25機が甲型に改造されている。

 

甲型

 甲型はエンジンを排気タービン付きハ112競襪亡港、機首の前方固定砲を37mm機関砲(ホ204。携行弾数35発)1門に変更された以外は乙型と同じであった。1944年11月、B29の空襲激化のため緊急生産指令が出て乙型の内25機が甲型に改修され、15機が陸軍に納入された。性能は上昇限度が10,000m、高度10,000mで最大速度580km/hを出すことが可能であり、高度10,000mまでの上昇時間は18分であった。しかし排気タービン過給器の故障は続出した。

 

丙型(未完成)

 丙型はキ102の夜間戦闘機型であり、夜間における離着陸、高空性能を向上させるため翼面積が増大され、それに伴い機体を安定させるため胴体後部を延長した。風防は操縦席と同乗者の風防を分離、中間に45度の角度で30mm機関砲(ホ155)2門を搭載。胴体下面の20mm機関砲(ホ5)は残されたが、機首砲、後席の旋回砲は廃止された。エンジンはハ112競襪如▲譟璽澄爾療觝椶睛縦蠅気譴討い拭性能は高度10,000mで600km/h、上昇時間は10,000mまで18分、実用上昇限度は13,500m、航続距離は2,200kmになる計画であった。

 

キ108

 1943年4月、陸軍は川崎航空機に対して与圧気密室付き高高度戦闘機キ108の開発を指示、同年8月、川崎航空機は土井武夫技師を設計主務者として開発に着手した。土井技師はキ102の機体をベースに与圧化することを計画。1944年5月には設計が完了した。7月にはキ102の機体を改修した試作1号機が完成する。胴体を大改修した結果、胴体の全長と全幅は増大した。エンジンはハ112兇鮖藩僉I霑は機首に37mm機関砲(ホ203)、胴体下面に20mm機関砲(ホ5)2門搭載予定であったが試作機は、実験機的な性格であったため、実際には搭載されなかった。

 性能は最大速度が高度6,000mで580km/h、高度10,000mで610km/h、上昇時間が高度5,000mまで9分、8,000mまで12分20秒、10,000mまで16〜17分、実用上昇限度は13,500m、航続距離が1,800kmであった。

 

キ108改

 1944年8月、高高度性能を向上させるため翼面積を増大させたキ108改が計画、1945年1月に設計完了。1945年3月には試作1号機が完成する。試作機は2機製造された。エンジンはハ112兇派霑は搭載されていなかった。1945年6月22日と26日の空襲で破壊、試作1号機のみ終戦時残存。

 

生産数

 試作機3機、増加試作機20機。総生産数は215機である。内25機が甲型に改造されている。

 

戦歴

 試作機であるものの215機が生産されたキ102は、一部「五式複戦」とも呼ばれた。襲撃機型である乙型は計爆撃機部隊である飛行第3戦隊、45戦隊、75戦隊に配備された他、1945年6月頃からは戦闘機隊である飛行第28戦隊へも配属、夜間戦闘機として活躍している。高高度戦闘機型である甲型も1942年10月に新設された航空審査部の黒江保彦少佐の手により複数回出撃、1945年3月25日の迎撃戦ではB29の撃墜に成功している。

 

まとめ

 

 キ102はキ45の改良型キ96として計画がスタート、キ96は双発戦闘機として十分な性能を発揮したものの当時の陸軍では高高度迎撃という必要性は認識されていなかったため制式採用はされなかった。仮に制式採用されていたとすれば効率的に量産化が行われ本土防空戦ではB29相手に健闘していたことが予想される。キ102は、悲運といえば悲運な航空機であった。

 

 

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01_百式重爆呑龍
(画像はwikipediaより転載)

 

 百式重爆呑龍は、戦闘機の援護を不要とすることを目的に設計された陸軍の重爆撃機である。このため設計者も一式戦闘機隼、二式単戦鐘馗を手掛けた小山悌技師を充て開発に乗り出した。結果、九七式重爆と大差ない重爆撃機となってしまったため歴史の中に埋もれてしまった。

 

百式重爆撃機 呑龍 〜概要〜

 

 

性能

全幅 20.42m
全長 16.81m
全高 4.25m
自重 6,540kg
最大速度 492km/h(高度5,000m)
上昇力 5,000mまで13分39秒
上昇限度 9,300m
エンジン出力 1,520馬力2基
航続距離 2,000km(正規)
武装 20mm機関砲1門、7.92mm機銃5挺
爆装 最大750kg
設計・開発 小山悌 / 中島飛行機

 

開発

02_百式重爆呑龍
(画像はwikipediaより転載)

 

 1937年12月、陸軍は中島飛行機に対してキ49の名称で九七式重爆の後継爆撃機の開発を指示した。性能要求は最高速度が九七式重爆の400km/h以上であったのに対して、500km/h以上、航続距離も九七式重爆の1,500〜2,100km以上に対して3,000km以上、爆弾搭載量は九七式重爆の750kgに対して1,000kgと増加していた。これに対して中島飛行機は、これまで重爆を手掛けていた松村健一技師に代わり(海軍機部門に転属)隼や鐘馗を設計した小山悌技師を設計主務者として開発を開始した。

 この設計主務者に小山技師を据えた判断は陸軍の要求が最高速度500km以上を要求する高速重爆であったため、戦闘機の設計を主に行っていた小山技師に白羽の矢が立ったものであるのだろう。その結果完成した重爆は、太い胴体に平面形の主翼というまさに戦闘機の性格を持った重爆であったと言える。

 1939年8月中旬、試作1号機が完成、本来、エンジンはハ41(1,260馬力)が搭載される予定であったが、生産が間に合わずハ5改(1,080馬力)が搭載されたが、ハ41を搭載した2号機、3号機が完成すると1号機もハ41に換装された。

 上昇力は5,000mまで14分、上昇限度は9,000m、航続距離3,400kmでほぼ要求を満たしたものであったが、最高速度は490km/h、爆弾搭載量は750kgと要求を下回っていた。武装は後上方に20mm機関砲1門、その他前面、尾部、両側面に7.7mm機銃各1挺を装備、合計6挺もの機銃を装備していた。

 1939年9月から年末にかけて基本審査が行われ、1940年1月に実用実験開始、同年8月に制式採用となるはずであったが、この時期、同時進行で開発されていた九七式重爆2型と性能がほぼ拮抗してたため問題となったが、将来の拡張性を考慮した結果、1941年3月、キ49は百式重爆として制式採用された。愛称は中島飛行機太田工場のある太田市にある大光院新田寺の通称「呑龍様」から呑龍と命名された。

 

2型

03_百式重爆呑龍
(画像はwikipediaより転載)

 

 百式重爆呑龍の制式採用の条件が性能向上型の開発であったこともあり、1941年3月、制式採用と同時に2型の研究が開始された。2型はエンジンをハ41の発展型ハ109(1,500馬力)に換装、最高速度は492km/h、上昇力が高度5,000mまで13分39秒、実用上昇限度が9,300m、航続距離が2,000〜3,000kmと1型に比べて僅かに性能が向上していた。1943年8月、基本審査完了、1943年6月には百式重爆2型として制式採用された。

 2型甲は、武装が後上方20mm機関砲(ホ1)、前部、側面両側の機銃を7.92mm機銃に変更、さらに尾部機銃を7.92mm連装機銃とした型であった。2型乙は甲の尾部銃座を12.7mm機関砲(ホ103)に変更した型であった。この乙の一部には推力式単排気管が装備されていた。丙型は電波警戒器タキ1(レーダー)を搭載した哨戒機型で推力式単排気管を装備した型で2型の内35機が改造された。

 

3型

 エンジンをハ107(2,000馬力)またはハ107を2段2速過給器に変更したハ117(2,470馬力)に換装した型である。1941年12月に試作1号機が完成したが、エンジンの開発に手間取ったため、完成したのは1942年4月末であった。1、2号機はハ107仕様であったが、1942年8月上旬に完成した3号機はハ117仕様であった。1943年12月百式重爆3型として制式採用された。

 機体自体にも大幅な改良が加えられ、ナセル間隔の増加、脚の高さの延長、水平尾翼の面積が増加された。武装も尾部機銃が20mm機関砲に変更、後上方、後下方が12.7mm機関砲に変更、爆弾搭載量も当初の要求通りに1,000kgに増加した。同時に燃料タンクの容量も1,000L増加されている。

 性能はハ107装備機が最高速度569km/h(高度4,800m)、ハ117装備機が540km/h(高度5,500m)で、上昇力も5,000mまで10分30秒と向上したが、実用上昇限度は8,500mに低下した。この3型は制式採用は決定したもののキ67(四式重爆飛龍)の開発に重点を置くため6機が製作されたのいで終わった。

 

キ50・キ58・キ80

 キ50は空中給油機型で試作のみ行われた。キ58はキ49の機体をベースとした爆撃機直接掩護用の多座戦闘機である。胴体上面に20mm機関砲を追加、20mm機関砲5門、12.7mm機関砲3門を装備していた。3機が試作されたのみで終わった。キ80は同じくキ49の機体をベースとした空中式用の機体で2機が試作された。

 

生産数

 百式重爆は合計819機(または832機、796機)が生産された。

 

戦歴

 最初に百式重爆が実戦配備されたのは1942年7月から8月にかけてで、配備された部隊は満洲に展開する飛行第7戦隊と第61戦隊であった。両部隊ともに九七式重爆からの改変で、改変が完了した9月には南方進出が決定、10月には7戦隊がジャワ島、61戦隊がスマトラ島に到着、海上を哨戒しつつ洋上航法や艦船攻撃の訓練を行った。

 1943年3月になると7戦隊はビルマに帰還する12戦隊に代わりスラバヤに進出するが、4月には装備機を百式重爆2型に改変するために浜松に帰還、スラバヤにはジャワ島の61戦隊が進出した。6月になると61戦隊にポートダーウィン攻撃命令が下り、一式戦闘機隼を装備する59戦隊などと共にチモール島ラウンテン飛行場に進出、数度の攻撃に参加したのち61戦隊も百式重爆2型に改変するために内地に帰還している。1943年7月になると百式重爆に改変した7戦隊が再びジャワ島に進出、さらに同月ニューギニアのブーツ東飛行場に進出、8月には7戦隊同様百式重爆2型に改変した61戦隊もニューギニアに進出したものの11月までには両戦隊ともに戦力のほとんどを失ってしまったため、1944年2月には7戦隊は人員の一部を61戦隊に転属させ内地に帰還、その後61戦隊は少数機による作戦を実施している。

 その他百式重爆を装備した戦隊であるが、1943年5月になると満洲に展開する74戦隊、95戦隊にも百式重爆が配備、1944年1月には62戦隊にも1型が配備されている。1944年2月になると満洲に展開していた74、95戦隊は内地に展開して哨戒、訓練を行ったのち9月には比島に進出、62戦隊もマレー半島に進出したのち10月には比島に進出して多くの作戦に参加、1944年12月には62戦隊、1945年1月には74戦隊、95戦隊も内地に帰還した。

 

まとめ

 

 百式重爆呑龍は傑作爆撃機九七式重爆と四式重爆撃機の間に挟まれた目立たない爆撃機で、同時期に製作された九七式重爆2型と性能はほぼ拮抗していたが、将来性を見込んで採用した機体であった。3型まで改良された時点で性能は大幅に向上したが、四式重爆の開発が始まってしまったため開発は打ち切られてしまった悲運の爆撃機であった。

 

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スーパーブラックホーク
(画像はブラックホークwikipediaより転載)

 

 今回紹介するのはスタームルガー社製スーパーブラックホーク。44マグナム弾を使用するシングルアクションリボルバーである。ガスガンではマルシンが発売している。日本では『ドーベルマン刑事』の主人公が愛用していた。それ以外にも映画やアニメ等でしばしば登場した銃である。

 

ルガースーパーブラックホーク(実銃)

 

 

性能(ニューモデル)

全長340mm
銃身長191mm(7.5インチモデル)
重量1,360g
口径44口径
装弾数6発

 

概要

 このルガースーパーブラックホークとはアメリカスタームルガー社が開発した44マグナム使用拳銃である。SR社は1953年、コルトSAAを参考にした22LR弾使用のシングル・シックスを開発する。これはSAAの完全コピーではなく、ファイアリングピン等に独自の工夫を施したものであった。その後、1955年には357マグナムバージョンのブラックホークを発売。翌年、44マグナムが開発されると1959年にブラックホーク44マグナムモデルが登場する。

 このモデルは357マグナムのブラックホークを改良したもので強度が弱く、ホットロードでの破裂事故が起こったことなどもあり、357マグナム、44マグナム共に生産を中止した。そしてアルミ製だったグリップフレームをモリブデン鋼に変更し、シリンダーのフルート(シリンダー外側の溝)を無くしてシリンダーの強度を上げたモデルを1959年に発売する。これがスーパーブラックホークである。

 さらに1968年、トランスファーバー・システムを組み込み安全性能を向上させたニューモデル・スーパーブラックホークを発表した。これにより弾薬を装填した状態で安全に携行できるようになり、ハンターには喜ばれた。

 ブラックホークがスーパーブラックホークに改良される過程で、トリガーガードが丸型から角型に変更された。これはどういう意図があったのかは不明だが、1978年1月号のイチロー氏のレポートによると相当痛い思いをするようだ。さらに初期不良としてシリンダーピンが抜け落ちるという事例も頻発したようだ。しかし人気があるようで現在でも生産が続けられているようだ。

 

ルガースーパーブラックホーク(モデルガン)

 

 トイガンでは、1976年にWAとハドソンが販売している。これはハドソンがWAのブラックホークをコピーしたという噂もちらほら。その後、1977年にマルシン、1978年にコクサイと再度WAが販売をした。さらに東京マルイも作るモデルガンシリーズとして販売していた。

 コクサイは金属モデルと共に「天ぷら」モデルも発売されているが、「天ぷら」モデルとは金属製の本体にプラスティックのボディを付けたもので、つまりは、外観は普通のプラスティックだが、中身は金属というものだ。マルシンのブラックホークはお目にかかったことはない。

 これらの中で最高傑作なのはWAのものである。ネットオークションではたまに見かけることもあるがビックリするようなプレミアがついている。一説にはこのモデルはもうWAでも金型が消失してしまい再販も出来ないという。

 

ルガースーパーブラックホーク(ガスガン)

 

マルシン ガスガン  スーパーブラックホーク 7.5インチ ブラックHW

 

 エアガンではかつてマルイが蓄圧式のエアガンを発売していた程度であろう。ガスガンでは発売しているのはマルシンのみである。マルシンは6mm弾仕様、8mm弾仕様の2種類を販売している。素材はHWとABSのモデルがあり、ABSにはノーマルABS、ディープブラック、シルバーモデルが存在する。銃身のバリエーションは7.5、10インチがあり、2020年7月には4.62インチが新しく発売される。さらにゴールド木製グリップモデルも存在する。

 性能的にも昔からガスリボルバーを作っていたメーカーであり、信頼はできるだろう。大口径の醍醐味を味わうには8mmというのもいい。6mm弾仕様のものはリボルバーとは思えない脅威の命中精度を発揮している。最近では8mm仕様は生産されていないようだが、6mm仕様は現在でも流通している。

 6mm仕様は最新モデルで初速が平均70m/s 前後で、命中精度は非常に良い。外観も完成度は非常に高く、ハンマーをコックした時の作動音は素晴らしいの一言だ。

 マルシンのガスリボルバーはグリップにガスタンクを内蔵する形式なので、実物グリップを装着することは出来ない。このためマルシンでは専用の木製グリップも販売されているのでこちらも一緒に購入しておいた方がいい。

 

まとめ

 

 大口径ハンドガンは、デザートイーグル、M29、M500等々新しいモデルの登場によって1950年代に誕生したスーパーブラックホークはすでに過去の銃となった感もある。ただ、シングルアクションの銃独特の美しさ、アクションの面白さもある。実銃では44口径のハンドガンはハンターがサイドアームとして所持するのが基本的な使用法だ。ハンターが使用する時は、M29などのダブルアクションハンドガンでもハンマーをコックして射撃するという。シングルアクションのみのハンドガンでも特に問題はない。

 

 


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01_九七式重爆
(画像はwikipediaより転載)

 

 九七式重爆は陸軍初の近代的重爆撃機であった。中島、三菱の競作であり、その採用には政治的思惑も噂されているが、性能は素晴らしく、同時期の海軍の爆撃機九六式陸攻の最高速度を100km/h以上上回った傑作爆撃機である。

 

九七式重爆撃機 〜概要〜

 

 

性能(1型)

全幅 22.00m
全長 16.00m
全高 4.35m
自重 4,691kg
最大速度 432km/h(高度 -000m)
上昇力  -
上昇限度 8,600m
エンジン出力 1,080馬力
航続距離 2,500km
武装 7.7mm連装機銃1挺、7.7mm機銃3挺
爆装 最大 1,000kg
設計・開発 三菱

 

背景から開発まで

 それまでの九三式重爆の旧式化に伴い、陸軍は、新重爆の開発を計画。1935年9月、陸軍航空本部は中島飛行機、三菱、川崎に次期爆撃機の研究に着手させた。その結果、1936年2月15日、中島飛行機と三菱に試作命令が出た。この新重爆は、最大速度がそれまでの九三式重爆の200km/hに対して、一挙に400km/hの速度を要求されたことが特徴的であった。そしてこの重爆が目標としていたことはそれまでの重爆が単に地上支援が任務であったのに対して、新重爆は航空撃滅戦(敵航空機の殲滅)であった。

 

開発

02_九七式重爆
(画像はwikipediaより転載)

 

 中島、三菱に命じられた試作機の完成期限は1936年10月であったが、両社共に遅れた。1936年12月、三菱が一足早く試作機を完成させた。性能はほぼ要求値を満たしており、1937年4月末の基本審査でも大きな問題は指摘されなかった。一方の中島飛行機は1937年3月に試作1号機が完成、6月より基本審査が行われた。両社の試作機を比較すると、まずエンジンは三菱がハ6(700馬力)、中島がハ5(950馬力)であり、寸法は三菱がやや大きく、中島はスマートな流線形であった。性能はどちらも甲乙付け難く、陸軍内部においても意見が二分されてしまった。

 この結果、陸軍は三菱の機体に中島製のエンジンを装着するということで解決、1937年6月11日、三菱に対して増加試作機(キ21)の製作が指示された。この決定は、両社の優れているところだけを抽出するというものであったが、問題はここからである。三菱にはエンジンの変更と共に陸軍の指示により機体の改修が命じられた。この内容は中島製の試作機の長所を全て三菱製に反映させるというもので、案の定、完成した機体はスマートな流線形を持つ中島製試作機にそっくりな形状となった。

 これを知った中島側は、自社の設計を三菱に「横取り」されたと不満を抱き、三菱側は自社の自慢のエンジンを不採用にされたことや設計の変更をさせられたことに不満を感じた。結局、この決定は両社に不満を持たせる結果となってしまった。しかし、この陸軍の決定により九七式重爆という傑作機が生まれたというのは皮肉な話である。

 試作機1、2号機は試験のため中国戦線に投入、さらに1937年末(1938年説あり)までに製造された増加試作機6機の内、5機も戦線に投入され、これらのフィードバックを残りの1機の増加試作機に反映させる方針であった。同時にエンジンをハ5改(850馬力)に換装された量産機(1型)が三菱、中島で製作されていった。

 

1型

 1型甲は、1型よりも燃料搭載量を増大させたタイプで武装は後上方に7.7mm連装機銃、機首と後下方に7.7mm機銃各1挺の合計4挺であった。

 1938年7月20日に試作1号機が完成した1型乙は、尾部銃と側方銃(左右兼用)が各1挺追加された。以前から安定性が不十分であった上に武装強化により重心位置が後退したため水平尾翼が大型化された。燃料タンクも防弾ゴムが装備されている。最大速度は432km/h、上昇限度8,600m。

 丙型は2型へのつなぎとして製造された機体で、外翼の形状の変更、車輪の大型化、燃料搭載量の増大等が行われている。

 

2型

 エンジンをハ101(1,450馬力)に換装した機体である。1939年11月14日、試作が指示された。1型丙のエンジンをハ101に改修して各種テストを実施、1940年12月に完成した。エンジンの換装に伴いエンジンナセルの形状を変更、車輪も完全な引込脚に変更された。武装もそれまで左右兼用であった側方銃も左右に各1挺設置された。エンジンの換装により最大速度は1型の432km/hに対して478km/hと大幅に向上した。2型乙の登場により2型甲と呼ばれた。

 2型乙は後上方機銃を12.7mm機関砲(ホ103)に換装、機銃座の風防を球形に改良された型である。2型丙は、機上電波警戒器タキ1(レーダー)を装備した機体で1944年2月中旬に試作機が完成、その後数機が生産された。2型は生産中に単排気管の装着、防弾装備の充実等が行われている。

 

輸送機型

 1型をベースに100式輸送機(キ57)として制式採用された。MC-20として民間にも転用されている。さらには貨物輸送機とされた機もあり、これはMC-21と呼ばれた。

 

生産数

 1型は、試作機2機、増加試作機6機、量産機350機が生産され、1型甲型は143機、乙型が120機、丙型が160機生産されている。1型は合計2型は1944年9月まで生産が続けられ2型甲が1,025機、2型乙が257機の合計1,282機が生産された。総生産数は試作機も含めると2,063機である。

 

戦歴

 1937年7月7日、盧溝橋事件の勃発により日中戦争が始まる。当時の日本陸軍が採用していた重爆は九三式重爆であったが、能力的には十分といえるものではなかった。このため1937年10月末、独立第3中隊に実用実験を兼ねて九七式重爆の試作1号機、2号機が配備、約2ヶ月の実用実験が終了した後、この2機は飛行第6大隊に引き渡された。さらに1938年6月までには大隊の全12機が九七式重爆に改変された。

 1938年8月には第6大隊は飛行第60戦隊に改編、以降、要地攻撃や地上部隊支援、さらには重慶等の奥地攻撃に活躍する。この頃になると九七式重爆は満洲の58、61戦隊、台湾の14戦隊にも配備されるようになっており、61戦隊は1939年に勃発したノモンハン事件にも参加している。このノモンハン戦の最中、九七式重爆を装備した62戦隊が誕生、さらに内地の7戦隊、1940年春には98戦隊、6月から8月の間に12戦隊が九七式重爆に改変された(1941年5月には12戦隊、98戦隊が2型へ改変されている)。

 太平洋戦争開戦時には1型丙を装備した62戦隊、12戦隊、60戦隊、98戦隊が仏印に進出、進出時に悪天候により14機を失ったものの145機が仏印に集結した。1941年12月8日、太平洋戦争が開戦するとこれらの戦隊はマレー攻撃、シンガポール攻撃に参加、その後ビルマのラングーン航空撃滅戦に参加、1942年2月には98戦隊に搭乗した第一挺身団によるパレンバン油田への空挺降下が実施、3月には九七式重爆によるビルマへの航空撃滅戦が行われている。

 一方、太平洋戦争開戦時に比島攻撃に参加した14戦隊は、1943年3月2日にシンガポールから島伝いにラバウルに進出、ソロモン、ニューギニア航空戦に参加したのち、1944年3月には比島に移動した。比島には12戦隊の九七式重爆と共に第7飛行師団の指揮下に入り比島決戦に活躍した。他にも比島にはタキー1機上電波警戒機を搭載した九七式重爆二型を装備した独立飛行31中隊が哨戒部隊として参加している。

 その他の戦線では、1943年3月には58戦隊、60戦隊がインド洋の哨戒任務や中国大陸での作戦を行っており、12戦隊や14戦隊、62戦隊等も中国大陸で活躍している。1945年になると九七式重爆はすでに旧式化していたが、同年3月に始まった沖縄戦では九七式重爆が義烈空挺隊を乗せて沖縄の飛行場へ強行着陸を敢行している。

 

まとめ

 

 九七式重爆は、日中戦争のさ中に開発された重爆撃機で太平洋戦争終戦まで使用され続けた。生産中に防弾性能の強化も行われたが、連合軍爆撃機に比べれば防弾装備は無きに等しい。沖縄への特攻攻撃である義烈空挺隊の搭乗機としても有名である。戦後も少数がタイで運用されている。

 

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20180524_08
管理者愛用のガスガン。主要パーツは樹脂製で構成されておりパワーも含め完全に法律を順守している。法律内でも外観のリアリティの追及は可能である。メタルパーツは必要ない。

 

 私が初めてWAのマグナブローバックを購入した当時、確か、1990年代中盤だったと思う。サードパーティーからコンバージョンキットが発売された。当時はフルメタルというのは違法ではなかったので、興奮しながら購入したものだった。何たって、トイガンが全金属製になるのだ。ガンファンにとっては夢に一歩も二歩も近づいたのだ。興奮しないはずがない。しかし一抹の不安というのもあったのは確かだ。子供の頃からのガンマニアだった私にとって日本の銃規制というのは良く知っている。

 

モデルガンの2度の規制

 

46年規制

 今では想像もつかないが、当初のモデルガンは金属製で銃口がガッポリ開いた実銃と見間違うばかりの外観と実銃と同じ撃発システムを持ったものであった。とはいっても、素材は強度の非常に弱い亜鉛合金で、メーカーによっては実銃よりも小さめに製作したりしていたが、一般人に素材の強度や実銃の大きさの違いが分かるはずもなく、残念ながら威嚇用途で犯罪に使用されてしまった。そのため1971年(昭和46年)にモデルガンは銃口にあたる部分を完全に閉塞した上で黄色、または白色に着色しなければならないという法律が制定された。これがいわゆる46年規制というものだ。

 

52年規制

 この時点では外観上の規制はされはしたが内部機構等には規制が無く相変わらず銃口が閉塞された状態の金色または白色(金色も黄色と看做される)のモデルガンであったが、モデルガンの構造上、実銃への改造が容易と考えた一部の人によりモデルガンに実弾を込め発射出来るように改造するという事件が勃発した。所謂「改造拳銃」というもので、これに対応するように1977年(昭和52年)、モデルガンを改造して実弾を発射できるようにした「改造拳銃」を取り締まるために構造の規制が行われることになった。

 この規制の主な内容はモデルガンの材質として柔らかい金属を使用すること、銃口、シリンダーにインサートという改造防止の鋼材を入れること、同時にリボルバーはシリンダーの強度を低下させるために隔壁に切れ目を入れること、銃身分離式モデルガンの禁止(銃身のみを交換することで実弾を発射することが可能となるという判断)等、厳しいものだった。これが52年規制と呼ばれるものだ。

 これにより構造上、コルトガバメントのような銃身分離式の金属モデルガンは違法になった。因みに金属以外のモデルガン、エアーガンにはこの法律は基本的には適用されないが、メーカーの自主規制としてプラスチック製モデルガンにも銃口にインサートが設置されている。

 

フルメタルエアーガン誕生

 

 1980年代になるとモデルガンは徐々に衰退していきエアーガン全盛の時代となる。6mmBB弾もこの時に生まれた。実銃とは全く異なる発射機構を持つエアーガンはガスガンとなり、徐々に高性能化して外観上のリアリティも実銃さながらの完成度にまで達したのだった。この進化は現在でも続いている。

 ここで1990年代になるとサードパーティからフルメタルに改造可能なパーツが発売されることが多くなった。上記の規制がありながら大丈夫なのかと心配になったが、どうも実銃と全く異なる発射機構であるが故に法律には抵触しないという理屈であったようだ。

 しかし、間違いなく46年規制には抵触しており、現在では全金属製のガスガン(模造拳銃)は違法という認識で間違いはない。ただし、パーツとして所持する分には問題は無いようだ。因みにモデルガンやエアガンのライフルやショットガン、サブマシンガン等のいわゆる「長物」に関してはフルメタルは合法である。理由は定かではないが、日本でもこれら「長物」の実銃を所有することが可能であるということからそれほど厳しくは取り締まっていないようだ。

 

法律は守ろう

 

 実銃の世界でポリマーフレームが流行している現在、実銃=全金属という発想自体がガンファンからすると前時代的だし、ガスガンを全金属製にしたところで実弾を撃てる訳でもない。発射機構が全然違うのだ。そもそも実弾を持っている段階で違法だ。

 実際、この法律に怒っているファンは少なくない。しかし、おかしいと思っても法は法。「おかしいと思うので守りませーん」という訳にはいかない。日本に住んでいる以上、法律は守らなければならない。ちょっと面倒は話になってしまったが、とりあえず、これが私のフルメタルに対する考えだ。

 

金属製スライド、フレーム

 

 それはそれとして、スライドのみ、フレームのみを金属とするというのは違法ではないようだ。但し、スライドのみ金属のガスガンが違法と判断された事例もあるようなので合法とも言い切れない。それを承知の上でハーフ金属をやるかやらないかというのは個人の好みになるが、私は基本的にはやらない。これはグレーゾーンだから止めといた方がいいというような考えではなく、純粋に性能面からの理由だ。

 アルミフレームはともかく、アルミスライドはプラスティックに比べて頑丈だ。実銃のトレーニングとして使用している人には強度を確保するためにアルミスライドに交換する人や外観のリアリティが増すので好む人もいる。

 但し、アルミスライドに交換することによりスライドの動きは遅くなる。そもそもメーカーはプラスチックのスライドを使用することを前提にエンジンを設計している。アルミの重量が負担になるのは当然のことだ。それを改善するためにはリコイルスプリングを軽くしたり、バルブのガス流出量を増やしたりするカスタムが必要だ。

 私がアルミスライドを組み込まないのは単純にそのカスタムが面倒だからだ。金もかかる。スライド、パワーは命中精度にも影響するのでそのことも考えなければならない。最近のエアガンメーカーの製品は命中精度が高い。昔とは比べ物にならない。

 アルミスライドを組み込めば、どんなに調整してもなかなか正規品以上の命中精度にはならない。落ちるが維持できるかだと思う。もちろん腕のいいガンスミスが調整すれば命中精度が上がることもあるだろうけど、私にはそんな腕がない。

 プラスチック製といえども現在のメーカーのプラスチックの技術はかつての比ではない。HW材の使用やブルーイング済の製品、メッキ技術も今では外観上は実銃と遜色のないところまで高められている。それらを捨てて敢えて「ちょっとだけ重くなる」「金属の作動音がでる」という程度の目的のために大枚を払って金属パーツを購入する必要はあるのだろうか。

 ということで私は基本的にドレスアップパーツを装着する以外のカスタムはしていない。リアルな外観であれば、タナカのジュピターフィニッシュ、WAのダメージ仕様等、プラスティックでも金属顔負けの外観のものもある。さらにカスタムメーカーに頼めばメッキ加工をしてくれるところもある。それで十分じゃないか。

 

エアーガンのパワー規制

 

 カスタムに関してもう一つ、エアーガンのパワーについても少し書いてみたい。エアーガンのパワーは実は2000年代に入るまで規制はなかった。ASGK(日本遊戯銃協同組合)というエアーガンの組合がかつて0.4ジュールと自主規制していたが、これは自主規制に過ぎなかった。

 1980年代のエアーガンは基本的にこの自主規制内に収まっていたものがほとんどだったと思う。しかし90年代に入ると徐々に威力を高めたエアーガンが発売されるようになった。さらにはカスタムパーツによって改造したエアーガンが犯罪に使用されるようになり、2006年に改正銃刀法が施行された。

 この法律では、パワーの上限が6mmBB弾では約0.98ジュールとされ、それを上回るエアーガンは準空気銃として規制の対象になる。つまりは違法である。現在市販されている国産のエアーガン、ガスガンは当然、この基準を上回ったパワーの銃は存在しない。国産のメーカー純正品を購入していれば問題は無い。

 しかし、海外ではこのようなパワー規制はないため、海外製品が日本に輸入される場合には日本仕様として威力を落としたものとなっているものがほとんどであるが、一部、パワーが法定値を超えてしまっているものもあるという話を聞いたことがある。これは注意が必要である。

 同様に注意が必要なのは、個人でのカスタムだ。上記の金属パーツの使用さえ気を付けていればカスタムをするのは全く問題ない。しかし、内部のエンジンをいじってパワーを上げた場合、この改正銃刀法に抵触する可能性がある。エアーガンのパワーは安定しているが、ガスガンは季節によって威力が異なる。冬場では法定内であったパワーも夏場では違法となる可能性もあるのでこれも注意が必要である。

 

まとめ

 

 私は個人的にはフレーム、スライドはメーカー純正品のままでカスタムをするのが好きだ。上記のように今のエアーガンはメーカー純正品の箱出し状態が最も高性能でバランスのとれた状態だ。個人ですごい技術を持っている人はいるが、営利目的の企業が本気で性能を追求した結果が出荷された製品の凄みというものもある。これは全く好みの問題ではあるが、私は日本メーカーの純正品愛好者だ。金が無くてカスタムパーツが買えないという説もあるが。。。

 

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01_飛燕甲
(画像は飛燕甲 wikipediaより転載)

 

 キ88は機首に37mm機関砲を装備した単発戦闘機であった。これはハ140エンジンを2基串型に配置したキ64のエンジンの前方エンジンを取り除き、そのスペースに37mm機関砲1門、20mm機関砲2門を装備する予定の機体であった。陸軍の機種統合整理の対象となり1943年に計画終了となった。

 

局地戦闘機 キ88 〜概要〜

 

性能(計画値)

全幅 12.40m
全長 10.20m
全高 4.00m
自重 2,950kg
最大速度 600km/h(高度6000m)
上昇力 5000mまで6分30秒
上昇限度 11,000m
エンジン出力 1,250馬力
航続距離 1,200km
武装 37mm機関砲1門、20mm機関砲(ホ5)2門
設計・開発 土井武夫 川崎飛行機

 

背景から開発まで

 三式戦闘機飛燕の設計で有名な土井武夫技師が高速戦闘機キ64の設計中にキ64の2基のエンジンの前方を廃止し、そこに37mm機関砲を装備すれば、対爆撃機用の重武装の単座戦闘機を造ることができるのではないかというアイデアを思い付いたのが計画の始まりであった。

 

開発

 キ64大口径砲搭載のアイデアに目を付けた陸軍は1942年8月にこの研究を採用、キ88局地防空戦闘機の名称で試作を指示した。予定では、試作機2機と増加試作機10機を製作するつもりであったという。これに対して川崎航空機は1943年6月に設計を完了した。同年9月には主翼と胴体が完成、10月より組み立てに入る予定であったが、陸軍の航空機開発の機種統合整理によって計画は中止された。この中止の背景には、当時完成間近であった四式戦闘機の性能が良かったこと、キ88と同様のレイアウトを持った米国製戦闘機P39の性能が芳しくなかったことがあったと言われている。

 現在はモックアップ審査用の写真のみが残されているが、シルエットは三式戦闘機飛燕に似ており、エンジンはハ140特(1500馬力)の使用を予定、武装は機首に37mm砲1門、20mm機関砲2門を機首部分に集中配置する予定であった。

 

バリエーション

 キ88のエンジンを排気タービン過給器付きのハ140甲に換装したキ88改が計画されており、キ88の増加試作機完成後、3機の試作機の製造が予定されていた。

 

生産数

 未完成、計画のみ。

 

まとめ

 

 キ88は陸軍の機種統合整理の対象となり試作機完成直前に計画が中止された機体であった。計画が中止された背景には使用予定であったハ140エンジンの生産は滞っており、完成したエンジンも不調が続いていたことも挙げれられている。このため仮に計画が実現していたとしても活躍できたかどうかは疑わしい。

 

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01_mp
(画像はwikipediaより転載)

 

 MPL(K)とは、1963年にワルサー社が開発したサブマシンガンである。レシーバー、グリップは薄いプレス板で形成されており、発射機構はブローバック式オープンボルトであった。近代的なサブマシンガンであったが、今ひとつ影の薄い存在であったといっていい。

 

MPL(K)(実銃)

 

 

性能(MPL)

全長 259mm
重量 2,830g
口径 9mm
使用弾薬 9mmパラベラム弾
装弾数 32発
設計・開発 ワルサー社

 

開発

 1950年代後半にドイツのカール・ワルサー社は西ドイツ軍、警察の再軍備計画に沿って短機関銃の開発をスタートさせた。その結果、1963年にはMPの完成を見ることとなった。このサブマシンガンは、レシーバーやグリップは薄いスチール板のプレス加工で製造され、折り畳み式のショルダーストックはパイプを曲げて製作されている。発射機構はブローバック式、オープンボルトというシンプルな構造になっている。グリップ上方にはアンビタイプのセイフティ・セレクタースイッチがあり、これを切り替えることでセミ・フルオートでの発射が可能となる。

 完成するとすぐに西ドイツの情報機関、ドイツ駐留の米軍特殊部隊に採用された他、米海軍特殊部隊SEAL、デルタフォースでも装備がM3グリースガンからMP5に変更される過渡期に一時的に採用されている。1983年に売上が低迷したため生産中止となったが、それまでに27,000挺が製造されている。バリエーションは銃身長の違う2種類のみで、長銃身モデルがMPL、短銃身モデルがMPKである。

 

MPL(K)(トイガン)

 

概要

 トイガンでは1986年に東京マルイがエアコッキングガンとしてMPK、MPLを発売、翌年にはポンプ式が発売され、1988年には排莢式のMPLが発売された。東京マルイ以外では同じく1988年にヨネザワからガスモーター式MPLが発売されている。

 

まとめ

 

 ワルサーMPは1963年に開発されたブローバック、オープンボルトのサブマシンガンであった。近代的なサブマシンガンであったものの、数年後にはH&K社が高い命中精度を誇るクローズドボルト方式の傑作サブマシンガンMP5を発売したため影の薄い存在となってしまい1983年に製造中止となったというあまり目立たないサブマシンガンであった。

 

 


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01_連山
(画像はwikipediaより転載)

 

 連山は太平洋戦争中期に計画、末期に完成した大型陸上攻撃機である。目的は遠距離の米軍基地を破壊するためのものであったが、試作機が完成した時点ではもはや戦局はひっ迫しており、試作機のみで生産は打ち切られた。戦後、米国でテストされたがエンジン不調のためその飛行性能は分からず仕舞いである。

 

大型陸上攻撃機 連山 〜概要〜

 

 

性能(一部計画値)

全幅 32.54m
全長 22.93m
全高 7.20m
自重 17,400kg
最大速度 593km/h(高度8,000m)
上昇力  -
上昇限度 10,200m
エンジン出力 2,000馬力4基
航続距離 3,700〜7,470km
武装 20mm機銃6挺、13mm機銃4挺
爆装 2,000kg爆弾(または魚雷)2発または
   1,500kg爆弾2発または
   800kg爆弾3発または
   250kg爆弾8発または
   60kg爆弾18発
設計・開発 松村健一 / 中島飛行機

 

開発

 

02_連山
(画像はwikipediaより転載)

 

完成まで

 太平洋戦争開戦後、遠距離にある敵基地を攻撃する必要性に迫られた日本海軍は、長距離爆撃機の開発を計画するようになった。このため海軍は4発エンジンの大型陸上攻撃機の開発を志向、1942年12月末、大型機深山開発に実績のある中島飛行機に計画番号N-40の試作計画を内示した。内示からおよそ半年後の1943年5月、この計画は陸海空共同試作機に指定される。

 この内示を受けた中島飛行機は、試製深山と同じ松村健一技師を設計主務者に計画に着手した。そして1943年9月14日、十八試陸上攻撃機試製連山(G8N1)の試作が中島飛行機に発注された。正式な発注に前後して、8〜9月には基礎設計が完了、12月には木型審査も完了した。そして1944年9月末、試作1号機が完成、10月23日初飛行に成功した。試作内示を受けてからわずか1年10ヶ月であった。

 1944年12月29日には試作2号機が完成、1号機とともに試験が行われた。この試製連山は日本では経験の少ない4発重爆である上、戦時下という悪条件の下であったが、作業は順調に進み、失敗が非常に少なかった。これには理由がある。設計主務者の松村健一技師は、作業に失敗を減らすために発動機、プロペラ等の選定には確実性のある資料に基づいて行うことや事前の研究、実験を綿密に行うこと、計画重量を超えない等以外にも以前の航空機設計の失敗からのフィードバックや目前の計画に集中し、それ以外の「欲をかかない」ことを求めた(例えば「将来の性能向上を見越す」等)。これらの対策が試製連山を成功に導いたといえる。

 

連山の特性

 エンジンは排気タービン付の誉24型ル(2,000馬力)でプロペラは6翅にすることも考えられたが結局無難な4翅とした。翼面荷重は速度を重視した高翼面荷重(239kg/屐砲箸掘△海里燭疥ッ緡ν僂某道劵侫薀奪廚噺討个譴襯侫薀奪廚硫縞にもう一枚フラップが付くフラップを採用した。胴体は厚い外板と少数の縦通材を使用する厚板構造の真円断面で、膠着装置は当時では珍しい前車輪式膠着装置(尾輪がなく前輪と主翼下部の車輪のみで機体を支える)が採用された。

 兵装は機首の前方に13mm連装機銃、胴体上方、下方、尾部に20mm連装機銃、側方左右に13mm機銃各1挺であり、側方機銃以外は全て動力式銃架であった。爆撃兵装は爆弾の搭載量は4tで、魚雷も搭載することが可能であったが、この時期にはもう大型機による魚雷攻撃というのは非現実的なものとなっていた。

 結局、連山は4機が完成したが、1945年6月には戦局の関係から開発中止が決定する。この4機の内、3号機は空襲で大破、4号機も破損したが、1、2号機の部品を使用して4号機は修復され戦後、米国に運ばれテストされた。1946年6月に飛行テストが行われたがエンジンの不調のためテストは2回で打ち切られた。連山が全力を発揮することはついになかった。

 

バリエーション

02_連山
(画像はwikipediaより転載)

 

 試作機4機のみの連山であったが、バリエーションは計画されていた。まず、特攻機桜花の母機として使用するために改修を加えたG8N1A、エンジンをハ43/11型ルに換装したG8N2、このG8N2を鋼製化したG8N3があった。

 

生産数

 連山は試作機6機、増加試作機10機、量産機32機が発注されていたが、1945年6月に連山の開発中止が決定してしまったため試作4号機が完成するにとどまった。連山の総生産数は試作機4機のみである。

 

まとめ

 

 連山は、深山とことなり大きな問題もなく完成した。大型陸上機の経験の少ない日本において非常に珍しいことであったが、そこには作業に関わった人々の知恵と努力があった。連山は、結局、実戦には参加せず、その能力を知られることもなく米国で廃棄されてしまったが、その技術は中島飛行機に継承されていった。

 

 

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01_ump
(画像はwikipediaより転載)

 

 UMPとは、ドイツのH&K社が米軍特殊部隊の要請に応える形で1999年に開発したサブマシンガンである。それまで一般的であった9mm弾を使用するサブマシンガンではストッピングパワーが不足するため45ACP弾を使用するサブマシンガンとして開発された。全体はグラスファイバーを混入したプラスチックを多用しているため軽量で錆にも強い。当初は45ACP弾仕様だけであったが、のちに9mm弾、40S&W弾仕様モデルも発売された。

 

UMP(実銃)

 

 

性能(45ACP弾仕様)

全長 450mm(ストック展開時690mm)
重量 2.3g
口径 45口径
使用弾薬 45ACP弾
装弾数 25発
設計・開発 H&K社

 

開発

02_ump
(画像はwikipediaより転載)

 

 UMPは米軍特殊部隊の要請を受けてH&K社が1999年に開発したサブマシンガンで、当時は一般的にはサブマシンガンは9mmパラベラム弾を使用するのが一般的であったが、現場では9mmパラベラム弾の威力不足が指摘されていた。このため本銃は十分なストッピングパワーを持つ45ACP弾を使用するサブマシンガンとして開発がスタートした。

 UMPはフレームやマガジンを始め内部パーツにまでグラスファイバーを混入したプラスチックで製造されているため、軽量で生産性に優れている他にも錆にも強いという特性を持っている。作動方式はブローバック式で閉鎖機構はクローズドボルト方式を採用している。セレクターは左右兼用でセミ・フルオート切替式、サイトはVノッチとピープ式を選択できるアイアンサイトが標準装備であるが、銃上面、下面にピカテニー規格の20mmレイルが装備されており、必要に応じて光学照準器を装備することができる。

 ストックは本体同様プラスチック製の折りたたみストックが装備されており、特殊部隊用に開発された製品のため脱着式のサイレンサーも供給されている。民間向けにもセミオートモデルが販売されているが、主にユーザーは法執行機関であり、米軍第5特殊作戦群を始め、米国国境警備隊、カナダ警察特殊部隊、オーストラリア特殊部隊を始め20ヶ国以上の国の法執行機関で制式採用されている。

 

バリエーション

03_ump
(画像はwikipediaより転載)

 

 特殊な銃器のためバリエーションは多くないが、9mmパラベラム弾仕様のUMP9、40S&W弾仕様のUMP40、民間向けセミオートモデルが発売されている。

 

UMP(トイガン)

 

概要

 電動ガンがUMAREX、UFC、G&G、ARES、S&T、ダブルイーグル等から発売されている。

 

まとめ

 

 UMPの構造は非常にシンプルであり発射機構もブローバック式である。さすがにオープンボルトは採用していないものの機構もシンプル、素材もグラスファイバー混入のプラスチックで全体的に無駄のない極めて合理的なサブマシンガンである。しかしクローズドボルト方式を採用しているため命中精度は高いという非常に完成度の高いサブマシンガンとなった。

 

 


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01_一式陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 一式陸攻は1941年に制式採用された双発爆撃機でその性能は当時としては随一のものであった。そのため多くの改良型が開発されたが、防弾装備を軽視したため戦場では「ワンショットライター」と呼ばれるほど脆く、多くの機体が撃墜されていったが、機体性能は素晴らしく傑作機といっていい。

 

一式陸上攻撃機 〜概要〜

 

 

性能(22型)

全幅 24.88m
全長 19.63m
全高 6.00m
自重 8,050kg
最大速度 437.1km/h(高度4,600m 250kg爆弾4発搭載時)
上昇限度 8,950m
エンジン出力 1,850馬力(2基)
航続距離 6,060km(偵察時)
武装 20mm機銃2挺、7.7mm機銃3挺
爆装 800kg爆弾(または魚雷)1発または500kg爆弾1発または
   250kg爆弾4発または
   60kg爆弾12発
設計・開発 本庄季郎 / 三菱

 

開発

02_一式陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 1937年9月末、海軍は、三菱に対して仮称一二試陸上攻撃機(G4M)の開発を命じた。要求された性能は最高速度398.1km/h(高度4,000m)、航続距離4,815km、800kg爆弾または魚雷搭載可能であること、乗員7〜9名、発動機は金星(1,000馬力)を使用することというものであった。これは当時、制式採用されていた九六式陸攻と爆弾搭載量は同じにして速度は50km/h以上、航続距離は800km以上を増大させるという苛烈なものであった。

 これに対して三菱は九六式陸攻の設計主務者であった本庄季郎技師を設計主務者として検討を開始した。本庄技師は当初は発動機4発の重爆を想定していた。これは双発でも要求性能は発揮することはできたが、防御面が不十分になるためエンジン2発のパワーで本来の性能、もう2発で防御関係の重量を支えるという構想であった。しかし、この構想は海軍側の猛反発に遭い、結果双発高速陸攻が完成するが、同時に防御装備が貧弱であり連合軍からは「ワンショットライター」と呼ばれることとなる。

 爆弾倉を胴体内に持つため胴体はいわゆる「葉巻型」となった。これは空力的には非常に優れた設計であった。翼内には燃料タンクが設けられ、さらに偵察任務の場合には爆弾倉内に増設タンクを搭載することが可能、脚は電動式で機体内に完全収納されるものであった。エンジンは当初は金星エンジンを採用する予定であったがより高性能な火星11型(1,530馬力)が完成したため火星エンジンを採用している。機銃は7.7mm機銃が前方に1挺、胴体上方に1挺、左右側面に各1挺、後方に20mm機銃が1挺の合計5挺が装備された。

 1939年9月、試作1号機が完成、翌10月23日初飛行が行われ、最高速度が444.5km/h(性能要求398.1km/h)、航続距離は5,556km(同4,815km)と性能要求を大幅に超えたもので関係者を驚かせたという。そして一連の審査が終わった1940年1月24日海軍に領収、順調に進んでいたが、掩護機型生産のため(下記参照)作業は大幅に遅れ、1年以上経た1941年4月2日一式陸上攻撃機として制式採用された。

 

海軍の型番の命名規則

 以下、一式陸攻のバリエーションについて解説するが、海軍の型番の命名規則は一の位がエンジンの変更、十の位が機体の変更を表している。つまり最初期型は11型で、機体設計に変更を加えると21型、エンジンに変更を加えると22型となる。さらにエンジンに変更を加えると23型という風に変わっていく。

 

G4M1シリーズ 型番10番台

 

03_一式陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

一式大型陸上練習機11型・一式陸上輸送機11型

 一式陸攻が制式採用される以前、十二試陸上攻撃機の高性能に注目した海軍は掩護機型を思い付く(G6M1)。三菱側は性能が低下すると反対したが、海軍は方針を変えず生産を命じた。改良点は爆弾倉を廃し、代わりに胴体下面に砲塔を設置、前後に20mm旋回銃2挺を搭載、上方銃座を20mm機銃に変更、燃料タンクの防弾化などである。1940年8月に試作機が完成したが予想通り重量超過となり失敗した。この試作機は練習機や輸送機に変更され、一式大型練習機11型(G6M1-L)、一式陸上輸送機11型(G6M1-L2)として制式採用された。

 

11型(12型とも)

 高高度性能を強化する目的でエンジンを火星15型に変更したもの。これにより最高速度が11型に比べ18.5km/h速くなった他、上昇時間、上昇限度も向上した。最高速度463km/h、航続距離6,030kmとなった。途中の生産機から燃料タンクに厚さ30mmの防弾ゴムを装備、防弾性能が強化された。11型、12型併せ略符号はG4M1である。

 

G4M2シリーズ 型番20番台

 

04_一式陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

22型(G4M2)

 22型は1942年11月24日に試作1号機が完成する。12型との変更点は、主翼、水平尾翼の形状を変更、プロペラを4翅に変更、燃料タンクの容量の増加、尾輪を引込脚に変更、上部機銃を20mm機銃に換装した他脚の補強も行われた。重量が増加したためエンジンを火星21型(1,850馬力)に変更している。22型甲は電探装備機で、22型乙は胴体上方の機銃が変更されている。最高速度437.1km/h、上昇限度8,950m、航続距離は2,500km。

 

24型(G4M2A)

 エンジンを火星25型(1,850馬力)に変更した機体。1944年に1号機が完成する。24型甲は側方銃を20mm1号銃に変更したタイプで、24型乙は24型甲の上方銃を変更したもの。24型丙は24型乙の前方銃を12.7mm機銃に変更したタイプである。24型丁は特別攻撃機桜花の母体とするために設計されたタイプで桜花用の懸吊装置を設置した他、防弾鋼板の設置などがされている。一部の24型丁には離陸補助用の四式噴進器2本が装備されている。

 

25型、26型、27型

 25型は、エンジンを火星27型(馬力不明)にしたものであったが、発動機工場が被爆してしまったため1機のみ製造された。26型はエンジンを火星25型乙に変更したもので2機が試作された。内1機は26型丁として桜花の母機となっている。

 27型はエンジンを火星25型ル付に変更したもので1機が改造された。

 

G4M3シリーズ 型番30番台

 

34型

 34型は、連合艦隊側から航続距離を犠牲にしても防弾性能を強化して欲しいという要望の下にエンジンは火星25型のままで機体の防弾性能を強化したタイプである。燃料タンクを防弾ゴムで覆ったものであったが、設計の途中で設計主務者である高橋巳治郎技師が病に倒れたため完成は遅れた。1944年1月試作1号機が完成、初飛行を行った。最高速度は481km/hと24型よりも向上していたが、重量が増大したため強度不足が生じその対策に手間取った。

 さらに海軍側から航続距離を延長せよという要求が出されたため作業は再び遅れた。そして再び海軍から武装を強化せよという要求が出された結果、完成は遅れに遅れ1944年10月に34型生産1号機が完成した。こうして生産が開始された34型であったが、そのころには攻撃機の主力は陸爆銀河や四式重爆飛龍(陸軍)に代わっており、一式陸攻は輸送や対潜哨戒に使用されていた。このため34型も輸送用や対潜哨戒用に改造された34型甲、上方機銃を長銃身の99式2号銃に変更した34型乙、機首前方機銃を13mm機銃に変更した34型丙もある。

 36型(G4M3D)はエンジンを火星25型乙に換装したもので、桜花の母機として36型丁も製作される予定であった。37型はエンジンを火星25型ル付に換装したもので2機が改造されテスト中に終戦となった。

 

生産数

 G4M1シリーズは、試作機が2機、11型が403機、12型が797機の合計1,202機、G4M2シリーズが、22型から27型までは三菱名古屋製作所で640機、水島製作所で512機(513機とも)の合計1,152機(1,153機とも)、G4M3シリーズが、約516〜530機ほど生産された。総生産数は2,420機、または2,435機である。

 

戦歴

 最初に一式陸攻が配備されたのは高雄空で、1941年5月、九六式陸攻から一式陸攻に改変されている。初めての実戦参加は同年7月27日の成都空襲で、以降、高雄空の一式陸攻は中国戦線での攻撃に度々参加している。そして9月には新たに鹿屋空が一式陸攻に改変を開始、両部隊ともにその後仏印進駐に参加している。

 太平洋戦争開戦時に一式陸攻を装備していたのも両部隊で、開戦劈頭フィリピンの各基地の攻撃に参加、12月10日には鹿屋空の一式陸攻隊がマレー沖海戦で戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、レパルスに雷撃を行っている。その後、零戦隊と共に比島・蘭印の各作戦に参加、この中で2月28日には高雄空の一式陸攻隊が水上機母艦ラングレーを撃沈している。

 

南東方面(ソロモン・ラバウル)の一式陸攻

 当初2航空隊のみであった一式陸攻隊であったが、1942年2月には新たに三沢空、4空にそれぞれ一式陸攻が配備、4空は2月14日にはラバウルに進出、20日には戦闘機の援護を受けずに米機動部隊攻撃を実施、参加17機中12機が被撃墜、2機が不時着という大損害を受け(ニューギニア沖海戦)、戦力回復後に行われた珊瑚海海戦においても出撃12機中隊長機以下4機を失うという損害を受けていた。このため内地で哨戒任務に就いていた三沢空にもラバウル進出が命ぜられ、8月には三沢空もラバウルに進出した。この頃になると九六式陸攻から一式陸攻への改変は進み、1空、千歳空が新たに一式陸攻を装備するようになっている。

 1942年8月7日に米軍はガダルカナル島に上陸、第一次ソロモン海戦が開始、4空、三沢空の一式陸攻隊は出撃87機中24機と実に30%の戦力を失うという大損害を受けており、これ以降でも8月中にさらに11機が撃墜されている。このため同月中に木更津空、9月には千歳空と高雄空の一部がラバウルに鹿屋空(751空)の一部(27機)がカビエンに進出、同時に戦力を消耗し尽くした4空(702空)が内地に帰還したもののラバウルには三沢空(705空)、木更津空(707空)、千歳空(703空)、高雄空(753空)の4個飛行隊79機が集結した。その後、12月には707空は戦力を消耗して解隊、代わりに九六式陸攻装備の701空(旧美幌空)が進出している。その後これらの航空隊と再度進出した702空によりラバウル航空戦が展開されるが、1944年2月には751空がトラック島に後退、おびただしい犠牲を出した一式陸攻隊によるソロモン航空戦は終止符を打った。

 

千島列島、中部太平洋の一式陸攻

 一方、北東方面(千島列島)では752空(旧1空)の一式陸攻隊45機が幌筵島に進出、アッツ島に来襲した米艦隊への攻撃を行ったものの戦果はなく、アッツ島の玉砕ののちの1943年11月にはマーシャル諸島に移動している。中部太平洋では開戦当初は千歳空(703空)と1空(752空)が展開していたが、ラバウル方面の戦局が逼迫したため千歳空はラバウルに進出、中部太平洋は1空のみとなったが1942年11月には755空(旧元山空)がウェーク島に進出した。1944年に入ると平和であったマーシャル諸島も米機動部隊の攻撃を受けるようになり、2月に入ると米軍が上陸、さらにトラック島も米機動部隊の空襲を受けるようになった。

 

終戦まで

 この後、米軍の攻撃はマリアナ諸島、台湾、比島にも及ぶことになるが、戦力の差が決定的になってしまった状態では一式陸攻も戦果は少なく消耗する一方であった。この戦争後期に特筆すべきなのは721空で、通称神雷部隊と呼ばれるこの航空隊は「人間爆弾」桜花を搭載する部隊であった。飛行隊長は野中五郎少佐で一式陸攻24丁型で各1機特攻機桜花が搭載可能であった。初出撃は3月21日で一式陸攻18機が出撃、全機撃墜されている。以降、6月22日までに計10回出撃が行われているが損害に対して目立った戦果は挙げられていない。

 

まとめ

 

05_一式陸攻
(画像はwikipediaより転載)
雷撃中の一式陸攻。一式陸攻の胴体の高さが2.5mであることを考えると海面ギリギリで雷撃する一式陸攻の搭乗員の練度の凄さが良く分かる。

 

 一式陸攻は完成当時世界トップクラスの飛行性能を持った双発爆撃機であったが、実戦では防弾装備を軽視した結果、機銃弾が命中すると即座に発火、連合軍パイロットから「ワンショットライター」と呼ばれる機体となった。これは海軍が防弾能力を軽視した結果であった。このため海軍は太平洋戦争初戦期で多くの優秀な搭乗員を失ってしまった。

 

 

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