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01_ルガーP08
(画像はwikipediaより転載)

 

 ルガーP08とは、1900年にゲオルグ・ルガーによって設計・開発された自動拳銃である。トグルアクションという独特の発射機構を持つ9mmパラベラム弾使用の拳銃であり、独特の形状から現在でもファンの多い拳銃である。精密な構造であったため劣悪な環境においての信頼性は低いものの世界中の軍隊や警察で使用されていた。

 

ルガーP08(実銃)

 

 

性能

全長 220mm
重量 870g
口径 9mm
使用弾薬 9×19mmパラベラム弾
装弾数 8発
設計・開発 ゲオルグ・ルガー / DWM社

 

開発

02_ルガーP08
(画像はM1900グリップセイフティがあるのが特徴 wikipediaより転載)

 

 ルガーP08は、1900年に発売されたゲオルグ・ルガーによって設計された自動拳銃である。1901年にスイス軍に制式採用、1904年にはドイツ海軍に制式採用された。当初の口径は7.65×21mmの30ルガー弾で初の実戦での使用は北清事変(義和団の乱)だと言われている。1901年4月、米軍が1,000挺のルガーM1900を購入、一部実戦で使用されている。

 1902年には9mmパラベラム弾を使用するモデルが生産された。このモデルはドイツ海軍が制式採用したが、これは通称「ネイビールガー」と呼ばれるモデルで銃身が6インチ、100mまたは200mに調整可能なタンジェントサイトが搭載された。1906年にはリコイルスプリングを板バネからコイルスプリングに変更された。これ以降をニューモデルと分類される。

 1906年には米軍の次期制式拳銃トライアルに45口径に改良したモデルで参加しているが、信頼性においてコルト社のオートマチック拳銃に敗れた。このコルト社の拳銃はその後M1911として制式採用される。余談だが、この時のルガーは、No.1は試験中に破損してしまったが、他の2挺とカービンが1挺が現存しており、100万ドル(約1億円)の価格がついている。

 1908年にはドイツ陸軍が9mmパラベラム弾仕様モデル3.9インチ銃身モデルをP08として制式採用した。この際、当初あったグリップセイフティは省略され、ショルダーストックを装着するための溝が付けられた。1913年7月にはドイツ軍は、200mm(8インチ)銃身を採用したLP08を砲兵用として制式採用。これは「砲兵モデル」と一般には言われるが、航空隊でも使用されている。これらのルガーは1945年まで使用された。

 1930年にはマウザーが製造を開始、戦時中にはベークライト製のグリップが装着されたコストを削減したモデルが製造されたこれらは米国の輸入業者によって「ブラック・ウィドウ」とキャッチコピーが付けられ米国で販売された。マウザーによるるがーP08の製造は1943年12月まで続けられた。

 作動はトグルアクション方式で、撃発方式はストライカー方式である。構造は精密であり、高い工作精度を必要とした。このため劣悪な環境下での使用では不安があった。またパーツには互換性があまりなかったため異なる個体の部品を装着すると作動不良を起こすことがあった。このため銃自体の性能が不当に低く評価されることとなった。

 

ルガーP08(トイガン)

 

概要

 1965年に中田商店が無可動モデルのルガーP08を販売した。さらに翌年モデルガンP08を販売、同年MGCも金属製P08を発表した。1973年にはマルシンがP08のモデルガンを販売する。1976年にはMGCがABS製のP08を発売、1987年にはマルシンがゲーリングルガー、1990年には通常のルガーP08を発売している。

 ガスガン、エアーガンでは1984年にマルゼンがカート式P08を発売、1985年東京マルイがコッキング式エアガンを発売、1986年にはマルコシがUXルガーを発売している。ガスガンではタナカワークス製ルガーP08が現在でも入手できる最も完成度が高いモデルである。

 

タナカ ルガー P08 4インチ HW 18歳以上ガスブローバック

性能

全長 219mm
重量 640g
装弾数 12発

 モデルガンメーカーのタナカワークス製P08。外観の完成度の高さは異常に素晴らしい。HW製のため重量感もそこそこはあるが、640gと若干軽めである。動きはチャキチャキと良く動き、トグルと銃身が後退するショートリコイル機構を再現している。タナカワークス製P08の一番の注目点はこれであろう。初速は70m/s前後であるが、6インチモデル等の長銃身モデルは初速が若干高いようだ。命中精度も高いがこれもやはり長銃身モデルに分がある。欠点は、エンジンがWAの旧型エンジンのため反動は弱い。

 

金属モデルガン組立キット マルシンルガーP08 4インチ プラグリップ仕様

性能

全長 224mm
重量 850g
装弾数 7発

 現在入手できる唯一のモデルガン。モデルガンメーカーの老舗であるマルシン製で1987年に発売したゲーリングルガーをベースにしているモデルガンである。モデルガンとして再現性は高く金属製でモデルガンとしては比較的安価である。ダミーカート仕様モデル。

 

まとめ

 

 ルガーP08は、ナチスドイツが使用していたために世界的に悪役が持つ銃というイメージが定着してしまっている銃ではあるが、スイスの高度な工作技術によって製作されたトグルアクションを持つ本銃は現在でも大変な人気がある。名銃中の名銃と言って良い銃である。

 

 

 

 

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01_トカレフ
(画像はwikipediaより転載)

 

  トカレフとは、1930年にソビエト軍に制式採用された拳銃である。コルトM1911のコピーで、同銃の機構を極限まで簡略化、安全装置まで廃止し、堅牢さと生産性の向上が図られたモデルである。単純なコピーではなく、寒冷地での使用を前提にグリップやハンマーに工夫が凝らされている。信頼性は高く現在でも多くの国で使用され続けている。

 

トカレフ(実銃)

 

 

性能

全長 196mm
重量 854g
口径 7.62mm口径
使用弾薬 7.62x25mmトカレフ弾
装弾数  8発
設計・開発 フョードル・トカレフ / トゥーラ造兵廠

 

背景から開発まで

 1917年に誕生したソ連赤軍は、帝政ロシア時代の制式拳銃であるナガン・リボルバーをそのまま使用していたが、1895年に制式採用されたナガン・リボルバーは構造が複雑であり、生産性の悪いリボルバーであった。さらに軍用拳銃の流れはオートマチックに変化しつつあり、これも踏まえてソビエト赤軍は1928年に制式拳銃トライアルを行った。この結果、制式採用されたのがトカレフTT1930である。

 

開発

02_トカレフ
(画像はwikipediaより転載)

 

 トカレフTT1930は米国製拳銃M1911を参考に極限まで構造を簡略化した銃である。基本構造はブローニング式ショートリコイル機構であるが口径はマウザー7.63mmカートリッジを模倣した7.62×25弾を使用、サムセイフティ、グリップセイフティは省略された。ハンマー・シアーはモジュラー構造になっておりユニットとして取り出すことが可能である。ハンマーやスライドのセレーションは手袋をしていても操作しやすいように深い溝が彫られておりハンマーはとっさに使用する時に引っかからないようにスライドに包み込まれるような形状になっている。

 生産工程を簡略化するために部品点数は非常に少なく設計しており、故障は少なく、分解も特別な工具を使用しなくても可能である。グリップも通常の軍用拳銃のように木製ではなくプレス加工で造られているという極限まで省力化した拳銃で、1930年から1936年までの間に93,000挺が生産された。1933年には、このTT1930をさらに簡略化したTT1933が完成、1954年にマカロフPMに置き換えられるまでに17万丁が製造された。世界各国でコピーされ現在でも使用され続けている名銃である。

 

トカレフ(トイガン)

 

概要

 モデルガンでは1967年に中田商店が金属製トカレフを発売したのが最初である。2000年代に入りハドソン産業からABS製で発売されている。HW製、ABS、ニッケルフィニッシュの3種類が発売されていた。ガスガンは日本ではKSCがシステム7でモデルアップしており、その他海外メーカーで数社がモデルアップしている。

 

KSC TT33 HW 18歳以上 ガスブローバックガン

性能

全長 195mm
重量 670g
装弾数 10発

 HW製でエンジンは最新のシステム7を採用している。精密チャンバーを採用しているので命中精度は高い。外観はKSC製のため完成度は非常に高い。KSCは2013年からトカレフを発売しているのでロッドにより性能が異なる可能性がある。最新ロッドを購入するように気を付けたい。

 

まとめ

 

 トカレフは特にメカニズム的には革新的なものが無い銃であるが、無駄を省いた上に高い信頼性を達成したモデルである。銃は高性能である以前に確実に作動することが最重要であり、この点トカレフは最高傑作といってよい。生産性やメンテナンス性も考慮したモジュラーシステムは現在のハンドガンでも普及しつつあるシステムでこの点は先進的であった。

 

 

 

 

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S&WM1917
(画像はwikipediaより転載)

 

 S&WM1917とは、第一次世界大戦時、米軍はM1911を装備していが数量が足りず、不足分を補う目的で製造されたリボルバーである。このM1917はS&W製とコルト製の2タイプ存在する。構造は全く異なるが、米軍の要請により、同じ45ACP弾を使用するM1917リボルバーとして同名で製造されている。

 

M1917リボルバー(実銃)

 

 

性能

全長 270 mm
重量 1.1 kg(コルト)
   1.0 kg (S&W)
口径 45口径
使用弾薬 45ACP弾, .45オートリム弾
装弾数 6発
設計・開発 S&W社 / コルト社

 

概要

 M1917は、第一次世界大戦時に米国が欧州に遠征軍を送ることになった際に、当時制式採用されていたM1911(所謂コルトガバメント)の不足を補うために採用されたリボルバーだ。正式名称は、「合衆国.45口径回転式拳銃M1917」である。M1911と同弾薬を使用するこのリボルバーは主に二線級部隊などの後方部隊に配備された。M1917リボルバーといっても1種類ではなく、コルト製M1917、S&W製M1917の2種類がある。装弾数や口径は同一であるが当然設計は全く異なる。

 45ACP弾はリムレス弾のためリボルバーでは使用できず、対策としてハーフムーンクリップを使用する。ここでこのリムレス弾とハーフムーンクリップについて簡単に説明しよう。リムレス弾のリムとはカートリッジの底にあるでっぱりのこと。リボルバーに弾丸を装填するときに突起の無い棒のようになっていてはカートリッジはそのままシリンダーの前方まで滑ってしまう。ここで底に出っ張りを作り、弾丸がシリンダー後部で引っ掛かるようにしたのだ。

 しかしオートにはその必要はないのでリムを持たないカートリッジが使用された。これがリムレス弾だ。しかし、このリムレス弾をリボルバーで使用するには上記のような問題が起こってしまう。そこで弾丸を3発ずつシリンダーの形に固定し2個のハーフムーンクリップを使用するとちょうど6連発のシリンダーが満タンになるようにしたのだ。これはS&Wの特許であったが、米軍の要請によりコルトでも使用することとなった。

 

 

S&W

02_S&WM1917
(画像はwikipediaより転載)

 

 S&Wにとってはこれが初の45ACP弾を使用する拳銃となった。ベースになったのは44口径ハンドエジェクターでバレルは5.5インチ、グリップにはチェッカリング等を施さないプレーンのクルミ材を使用した。当初はブルーイング処理を施されていたがのちにパーカーライジング処理に変更されている。S&WのM1917は当初からヘッドスペースを設けており、ハーフムーンクリップが無くても発射することができる。但し、リムが無いためエジェクターロッドが使用できず排莢することは出来ない。第一次世界大戦中に総計163,476挺のM1917を生産した。

 

02-1_ヘッドスペース
(画像はwikipediaより転載)

 

※ ヘッドスペースとは薬室の中でカートリッジ部分のみが入るスペースのことである。銃のカートリッジは弾丸と薬莢に分けることが出来る。薬莢は弾丸を先頭に埋め込まれるので弾丸よりも外径がわずかに大きくなる。バレルの内径が弾丸の外径と同じ径で設計されているのに対して薬室の薬莢の入る部分の内径も薬莢の外径と同じ径で設計されている。このため薬室にはバレルとカートリッジ部にわずかな段差が出来る。このカートリッジが入る部分をヘッドスペースという。

 

コルト

コルトM1917
(画像はwikipediaより転載)

 

 以前から米軍に制式採用されているM1909を基に設計されている。口径が同じであるためか設計はほとんど変更されていない。M1909が使用するカートリッジは45口径ロングコルト弾であるため、45ACP弾用にシリンダー長が短縮されている。初期のモデルにはヘッドスペースが無かったためハーフムーンクリップを使用しないで撃つと不発が出たが、のちのモデルにはヘッドスペースが設けられたためクリップなしで射撃することができる。約150,000挺程度生産された。

 

M1917リボルバー(トイガン)

 

概要

 モデルガンでは、1977年にハドソン産業がS&W製M1917を金属モデルで発売している(1977年以前にすでに発売していた可能性がある)。近年ではタナカワークスがS&W製M1917をモデルガン、ガスガン共に発売している。

 

タナカ S&W M1917HE2 4インチ カスタム HW 455ハンドエジェクターモデル ファイブスクリュー モデルガン完成品

性能

全長 235mm
重量 500g
装弾数 6発

 HW製のモデルガン。タナカワークス製なのでリアリティは抜群である。

 

タナカ S&W M1917HE2 4インチ カスタム HW 455ハンドエジェクターモデル ファイブスクリュー

タナカ
これはM1917の1914〜1916年までイギリス政府の要請で生産された455ウェブリー弾を使用するモデル。

性能

全長 235mm
重量 710g
装弾数 6発

 このM1917のトイガン、S&W社製のM1917の方はモデルガン、ガスガン共にタナカワークスが販売している。古いモデルではないので比較的容易に入手することができる。ガスガンはタナカワークスの定番ペガサスシリーズだ。

 タナカワークスは特にロッドによって仕様変更が多いメーカーなので最新型を購入することをおすすめする。特に命中精度に関しては初期ロッドと現行ロッドでは大きく異なる。さらにタナカワークスの超リアルメッキの「ジュピターフィニッシュ」であるが、ガスガンの場合、亜鉛製シリンダーとHW製フレームの材質が異なるため同じメッキでも質感が若干変わっている。通販での購入の際には注意が必要だ。

 

 

 

 

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01_ドーントレス
(画像はwikipediaより転載)

 

SBDドーントレス爆撃機

 

 

開発

 SBD-1ドーントレスとは米国の艦上爆撃機で名称のdauntlessとは「恐れを知らない。不屈の」という意味で、SBDとは(scout(偵察) bomber(爆撃) douglas(ダグラス))の略である。設計は1935年に開始され、1940年後半に初期型のSBD-1が初めて海兵隊に配備された。続いて改良型のSBD-2が海軍に引き渡されている。

 速度は若干遅いものの、機動性、操縦性に優れ、爆弾搭載量も多く、頑丈で防御性能も高い爆撃機であった。全長10.09m、全幅12.66m、全高3.94m、戦闘重量4,492kg、プロペラは3翅3.30m、エンジンはライトR-1820-60エンジン(1,200馬力)、最高速度410km/h(高度4,785m)、実用上昇限度7,650m、航続距離1,794kmで武装は12.7mm機銃2門(各360発)、後席に7.62mm機銃2門(各1,000発)、爆弾倉に最大725kgの爆弾を1発、翼下には45kg爆弾2発を搭載可能である(データはSBD-5)。フラップは穴あき式でダイブブレーキも兼ねており、母艦搭載機であるが翼は折り畳むことができない。

 バリエーションは主にSBD-1からSBD-6までの6種類あり、SBD-2は海軍用で燃料搭載量が増加している。1941年初頭に製造が開始されたSBD-3は機首の機銃を12.7mm2挺へ変更、防弾タンクと防弾鋼板を装備してエンジンをライトR-1820-52(1,000馬力)に変更している。SBD-4は陸軍モデルの海軍呼称で、SBD-5はエンジンをライトR-1820-60(1,200馬力)に変更したものである。このSBD-5が最も量産されたモデルで約2,400機が生産されている。最終型のSBD-6はエンジンをライトR-1820-66(1,350馬力)に変更したモデルである。

 

実戦参加とその後

 初の実戦参加は1941年12月10日で、空母エンタープライズ搭載機が日本の潜水艦伊70を攻撃、撃沈している。その後も様々な作戦において使用されているが、ミッドウェー海戦では日本の機動部隊に致命傷を与えている。このため当時はSBDの頭文字に因んで「Slow But Deadly」(遅いが致命的)というニックネームで呼ばれていたという。

 海軍・海兵隊のみならず陸軍でも採用され、A-24バンシー爆撃機として第二次世界大戦全般を戦っている他、イギリス海軍、ニュージーランド空軍、自由フランス空軍、メキシコ軍でも使用された。海軍では1944年後半から後継機ヘルダイバーに変更されていったが、ドーントレスはヘルダイバーに比べ速度や爆弾搭載量では劣るものの、逆に低速、軽量で着艦時の操作性に優れていたためドーントレスを使用し続ける部隊が多かった。海兵隊は終戦間際までドーントレスを使用し続けている。

 1940年から1944年7月まで製造され、総生産数は5,936機で内、SBD-5が約2,400機、陸軍モデルのA-24が953機(または948機)である。陸軍では戦後も使用され続け、1947年の空軍創設時にも存続、戦闘機として分類されF-24と改称された。この最後のF-24が廃棄されたのは1950年であるが、メキシコ軍ではその9年後の1959年まで使用し続けられた。

 

 

 

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01_月光
(画像は夜間戦闘機月光 wikipediaより転載)

 

 夜間戦闘機 電光とは、太平洋戦争開戦後に愛知航空機によって開発されていた夜間戦闘機で日本では初めての夜間戦闘機として設計された機体であった。斜め銃としても機能する機首の可動式20mm機銃等の新機能や排気タービン過給器の装備により高高度での高性能が見込まれていたが、試作1号機の完成直前に空襲により被爆焼失、そのまま終戦となった。

 

夜間戦闘機 電光 〜概要〜

 

性能(誉24型装備機の計画値)

全幅 17.50m
全長 17.50m
全高 4.25m
自重 6,820kg
最大速度 690km/h(高度10,000m)
上昇力 6000mまで8分15秒
上昇限度 12,500m
エンジン出力 1,890馬力(誉24型)2基
航続距離 2,477km(巡航5時間、全力30分)
武装 30mm機銃1挺、20mm機銃4挺
爆装 250kg爆弾1発または
   60kg爆弾4発
乗員 2名
設計・開発 尾崎紀男 / 愛知航空機

 

開発

 1943年、海軍は愛知航空機に十八試丙戦闘機試製電光の開発が指示された。これは陸海軍で夜間戦闘機として開発された最初で最後の機体であった。愛知航空機には以前から内示が出ており、尾崎紀男技師を設計主務者として研究を行っていた。1943年11月には基礎設計を開始、1944年8月には実大模型審査が行われた。1945年8月には試作1号機が完成する予定で、2号機も疎開先の岐阜工場で組み立てを開始していた。

 電光は、自重6,820kg、全備重量が9,695kgという超大型戦闘機であった。これは同じく夜間戦闘機に改修された大型戦闘機の月光の自重が4,562kg、全備重量が7,527kgであることからその大きさが分かるであろう。そのため、エンジンは排気タービン過給器装備の誉24型(1,890馬力)2基で、プロペラは直径3.45m定速式4翅プロペラを採用された。翼面荷重が206kg/屬肪する本機は、離着陸時にも高揚力が必要なため、フラップには親子フラップを採用、補助翼の一部もフラップとして機能するようになっていた。さらに敵攻撃時の抵抗板もフラップ兼用となっていた。

 

武装

 武装は、機首中央に五式30mm機銃1挺(弾数100発)、その左右斜め下に九九式2号4型20mm機銃各1挺(弾数各200発)が装備された。中央の30mm機銃は固定式であるが、左右の20mm機銃は30度まで上向させることが可能で斜め銃として使用することが出来る。この操作は操縦席内の操作レバーによって行う。これらの機銃は操縦席内において20mm機銃のみの発射または30mm機銃、20mm機銃の同時発射が選択できるようになっていた。

 さらに偵察機の後方には20mm機銃(弾数各200発)2挺を装備した遠隔操管制銃塔が装備され、爆撃兵装は、250kg爆弾1発、または60kg爆弾4発が装備可能であった。夜間戦闘機に必須のレーダーは十八試空六号または十九試空電波探信儀2号11型が搭載予定であった。

 

予定されていた性能

 生産性の向上にも工夫が凝らしてあり、部品点数の最小化を始め、降着装置、油圧系統の部品は陸爆銀河の部品を流用することとなっていた。さらには資材節約のため可能な限り木材や鉄鋼を使用しておりフラップ、昇降舵、方向舵は何と布張りであった。

 それでも予定されていた性能は高く、最高速度は高度9,000mで668.6km/h、高度10,000mでは690km/h、巡航速度は高度4,000mで451km/h、上昇力は高度6,000mまで8分15秒、9,000mまでは13分、上昇限度は12,500m、航続力は2,477km(巡航5時間、全力30分)であった。

 

生産中止

 このような高性能を期待されていた電光であったが、海軍の試作機の整理統合において試作中止機の候補に挙がってしまう。しかしB29の空襲が予想されることから整理の対象から外されたものの、1944年12月7日には東海大地震により愛知航空機の工場が大被害を受けると同時にB29による名古屋地区の空襲も激化していった。

 1945年6月9日、愛知航空機に対する集中的な空襲があり、これによって完成寸前であった電光試作1号機は被爆焼失してしまった。さらに岐阜工場で製作されていた2号機も終戦直前に空襲により被爆焼失してしまった。

 

生産数

 試作機2機(未完成)

 

まとめ

 

 夜間戦闘機電光は太平洋戦争開戦後に開発が始められた航空機である。残念ながら試作機製作中に空襲により焼失してしまったが、この電光の特徴はその高性能もさることながら、高性能一点張りであった海軍機が生産効率まで考えて製作されたことであろう。さらに陸海軍が協力して当初からこのような効率的な生産を行っていれば、より多くの高性能機を前線に送ることが出来たであろう。

 

 

 

 

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BB-55戦艦ノースカロライナ
(画像はwikipediaより転載)

 

 ノースカロライナ級はアメリカがロンドン海軍軍縮条約が無効になった後、最初に建造した戦艦である。太平洋戦争では新鋭戦艦として参加、ソロモン海戦では戦艦同士の砲撃戦を行い戦艦霧島を撃沈する戦果を挙げた名艦である。

 

戦艦ノースカロライナ級 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 35000トン
 最大排水量 44638トン
 全長 222.3m
 全幅 33m
 吃水 10m
 機関出力 12万1000馬力
 最大速力 28ノット
 航続距離 15000海里/15ノット
 乗員 1880名
 武装 45口径40.6cm砲3連装3基
    12.7cm両用砲2連装10基
    28mm機関砲4連装4基
 装甲 舷側30.5cm
    甲板14cm
    主砲30.5cm
 同型艦 2隻

 

 

特徴

 ロンドン海軍軍縮条約の無効により最初にアメリカで建造されたのがこのノースカロライナ級戦艦である。全長は前級よりも32mも長くなり、米戦艦独特の籠マストが廃止されている。主砲は当初は35.6cm(14インチ)4連装砲の搭載を予定していたが、より強力なマーク45口径40.6cm(16インチ)3連装砲に変更され、砲塔の配置も従来の前後均等ではなく前部に2基、後部に1基の配置となった。

 これはロンドン海軍軍縮条約に定められたエスカレーター条項によるもので、仮に1937年4月1日までに第二次ロンドン海軍軍縮条約に調印しない国があれば、諸々の制限を緩和するというもので、戦艦に関しては排水量45,000トン以下、主砲16インチ(40.6cm)以下に緩和される規定であった。次級のサウスダコタ級戦艦でも本級と同じマーク困鯏觝椶靴討い襪、こちらは当初からマーク困鯏觝椶垢詬縦蠅農澤廚気譴討い襦戦争後期には対空防御用として40mm4連装砲が15基追加された。

 本級の特徴としては主機に蒸気タービンを採用したことで前級であるコロラド級の2万8900馬力を大幅に上回る12万1000馬力を出すことが可能となった。これにより速力が前級の21ノットから28ノットへと大幅に向上している。本級の問題点としては主砲が変更になったため装甲が35.6cm砲用のものであり、ある程度の余裕を持たせた設計ではあったものの、40.6cm砲に対しての防御力は十分とは言えなかった。

 

建造

 1番艦ノースカロライナは1937年8月に発注され、1937年10月に起工、1940年6月に進水、1941年4月に就役している。2番艦ワシントンは1937年8月に1番艦と共に発注され、1938年6月に起工、1940年6月に進水、1941年5月15日に就役している。

 

戦艦ノースカロライナ級の活躍

 

1番艦ノースカロライナ

BB-55戦艦ノースカロライナ01
(画像はwikipediaより転載)

 

 1番艦ノースカロライナは1937年10月に起工され、1941年4月に就役したが、試運転の際、推進器の振動による不具合が発生、実戦投入可能な状態になるまでに数年を要した。1942年3月、姉妹艦ワシントンと共に大西洋に配備され、イギリス艦隊の支援及び、対ソ物資輸送船団の護衛に当たった。6月にはパナマ運河を通過し太平洋に転戦、8月にガダルカナル島上陸支援、第二次ソロモン海戦に参加する。

 1942年9月には日本海軍の潜水艦伊号19潜の発射した魚雷が命中爆発するが、被弾後も24ノットでの航行が可能であり、米軍のダメージコントロールの巧みさと本級の堅牢さが証明された。その後自力で真珠湾に寄港修理を受けた。11月には戦列に復帰、空母の直衛を行う。

 1943年3月、真珠湾に寄港、新型の射撃管制装置及びレーダーが装備された。以後、ギルバート諸島、マーシャル諸島、クェゼリン環礁、サイパン島攻撃等に参加。1944年6月にはマリアナ沖海戦に参加する。その後、フィリピン、硫黄島、沖縄攻撃に参加の後、終戦を迎える。

 戦後は兵員の輸送任務に従事した。1945年10月には米本土に帰還し、オーバーホールを受ける。その後は練習艦として活躍するが、1947年6月退役、予備役に編入される。1961年6月除籍。1962年より記念館として保存された。1986年にはアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定された。

 

2番艦ワシントン

BB-56戦艦ワシントン
(画像はwikipediaより転載)

 

 2番艦ワシントンは、1938年6月に起工、1941年5月に就役した。本艦も1番艦ノースカロライナと同様、振動問題に悩まされ、スクリューの修理、交換、乗組員の訓練を行っているうちに太平洋戦争開戦を迎えた。開戦後は1番艦ノースカロライナと共に第6戦艦戦隊を編成し、1942年3月には大西洋に向かった。

 大西洋ではイギリス艦隊の支援及び、対ソ物資輸送船団の護衛に当たった。7月にはワシントンは米本土に帰還、オーバーホールを受ける。1942年8月ワシントンは太平洋に転戦、12月には第三次ソロモン海戦では日本艦隊に単艦で突入、戦艦霧島を撃沈した。

 その後、タラワ、クェゼリン環礁、メジュロ珊瑚礁、サイパン島攻撃に参加、1944年6月にはマリアナ沖海戦に参加、日本艦隊を追撃するも戦闘をする機会はなかった。1944年9月にはパラオ攻撃、フィリピン攻撃に参加した後、レイテ沖海戦に参加する。1945年2月には硫黄島攻略に参加、4月には沖縄への艦砲射撃を行う。1945年6月には米本土に帰還する。1947年6月に予備役に編入、1960年6月除籍、1961年5月に解隊処分された。

 

戦艦ノースカロライナ級(模型)

 

 

青島文化教材社 1/700 ウォーターラインシリーズ アメリカ海軍 戦艦 ノースカロライナ

 ノースカロライナ級戦艦の1番艦。大西洋、太平洋と暴れまわった。太平洋戦争では第二次ソロモン海戦に参加する。魚雷により被弾するも堅牢な艦体のため撃沈は免れた。歴戦の艦。

 

青島文化教材社 1/700 ウォーターラインシリーズ アメリカ海軍 戦艦 ワシントン

 ノースカロライナ級戦艦2番艦。第三次ソロモン海戦で日本艦隊に単艦で突入、戦艦霧島を撃沈した殊勲艦。その後の戦闘も生き抜いたが、戦後は残念ながら解体されてしまう。

 

まとめ

 

 戦艦ノースカロライナ級は、太平洋戦争初期から中期の日米の戦力が比較的拮抗している時期に投入された新鋭戦艦であった。そのため日本艦隊の攻撃による被弾も多かったが2隻とも無事に終戦を迎えた。2番艦ワシントンは解体されてしまったが、1番艦ノースカロライナは現在記念館として保存されている。

 

関連リンク

次級サウスダコタ級戦艦

 

 

 

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01_ガーター勲章を佩用する明治天皇
(画像はwikipediaより転載)

 

超要約

 

 栄光ある孤立を選んでいた英国であったが、中国におけるロシア・フランス・ドイツの進出を防ぐために日本との同盟を選んだ。直後に起こった日露戦争での日本の強さを知った英国はより強力な同盟を締結する。しかし日英両国の接近は両国に挟まれた米国の警戒心を生む。結局、日英に米仏を含めた四か国条約を締結することで日英同盟は解消された。

 

日英同盟

 

同盟締結までの情勢

 清国はアヘン戦争以降、英国の半植民地のような状態であったが、1895年に日清戦争によって日本が勝利すると状況は一変することになる。日本に対して巨額の賠償金の支払い義務がある清国は資金を捻出するためにロシアとフランスから金を借りることにした。その見返りとして自国への権益を認めざるを得なかった。

 ロシアは満洲から中国に勢力を拡大、同時にフランスも自国領であるベトナムから中国に勢力を拡大してきた。さらにドイツが山東半島に出兵して勢力圏としたのに対して英国もいよいよ単独で対処するには限界となり、どこかの国と軍事同盟を結ぼうと考えるようになった。

 その国とは日本の事で、日本もロシアの南下に対して警戒感を強めていた。このまま南下が続けば、その先には日本がある。どこかで南下を食い止めたかったのだ。日本ではロシアと協約を結び、ロシアが朝鮮半島へ侵入するのを防ぐ案と英国と同盟を結びロシアと開戦するという案の二つが対立したが、結局、英国と同盟を結ぶこととなった。

 

第一次日英同盟(1902年)

 1902年、日英同盟が成立する。この同盟は1国が戦争状態になった時、同盟国は中立を守ること。そして2国以上と交戦状態になった場合は同盟国側に立ち参戦することが決められた。つまりは一対一の「サシの勝負」は見守るだけだが、相手に助太刀が入った場合は「お味方致す」ということだ。この時の秘密交渉では日本はロシアと開戦する予定であると英国に伝えている。期限は5年間でああった。

 

 

第二次日英同盟(1905年)

 2年後の1904年、日露戦争が開戦する。大方の予想に反して戦局は日本にとって有利となった。1905年、奉天会戦での勝利、日本海海戦でのバルチック艦隊の撃滅と同盟国が予想以上に強かったので気を良くした英国は、さらに進めて同盟国が1国以上と交戦した場合は参戦するというより積極的な同盟に変更された。つまりは「サシの勝負」でも日英の2国で戦うということだ。さらに期限も10年と延長されることとなった。この第二次日英同盟時に日本の大韓帝国保護国化を英国が承認することが確認された。これは割と重要なことだ。

 

第三次日英同盟(1911年)

 日露戦争以降、米国は膨張していく日本に対して警戒感を強めていた。米国にとって日本と英国とは大洋を挟んだ隣国なのだ。自国を挟んだ隣国同士が軍事同盟を結んでいるというのは脅威でしかない。このため米国の希望により第三次日英同盟では米国を交戦相手国の対象外とすることが決められた。但し、この決定は日英同盟の自動参戦規定とは矛盾することになる。

 

同盟解消(1923年)

 第一次世界大戦後のパリ講和会議で日本は人種差別撤廃を主張した。これは主に移民に対する差別を禁止することを目的としたものであった。これに対して英国が反対にまわったことは両国のわだかまりとして残った。さらに日英同盟を警戒する米国の思惑が重なった結果、1921年のワシントン会議で新たに日英同盟に米国とフランスを加えた四か国条約を締結することとなった。これは日英同盟のような強力な軍事同盟ではなく、相互尊重、現状維持という内容のあまり実体のあるものではなかった。1923年、四か国条約発効とともに日英同盟は破棄されることになった。

 

 

 

 

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01_九四式水偵
(画像はwikipediaより転載)

 

 九四式水上偵察機とは、複葉布張りの3人乗り水上偵察機であるがあまりの高性能にドイツからライセンス生産の要求があったと伝えらえているほどである。また海軍関係者をして「本機の出現は航空作戦に寄与すること大なり」と言わしめたほどであった。1933年に初飛行した本機は換装して使用され続け太平洋戦争終戦まで実戦で活躍し続けた。

 

九四式水上偵察機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 14.00m
全長 10.50m
全高 4.73m
自重 2,000kg
最大速度 239km/h(高度 - m)
上昇力 3,000mまで10分45秒
上昇限度 7,520m
エンジン出力 600馬力(九一式水冷)
航続距離 12時間
武装 7.7mm機銃1挺、7.7mm旋回機銃1挺
爆装 60kg爆弾2発または
   30kg爆弾4発
設計・開発 関口英二 / 川西航空機

 

背景から開発まで

 国の四面を海に囲まれているという地理的要因ゆえに日本では水上機が発達した。世界を探してもここまで水上機に力を入れた国は他にない。水上機の種類も豊富で偵察機はもちろん、世界で唯一量産化された水上戦闘機、水上攻撃機、急降下爆撃可能な水上爆撃機等多彩な機種を開発・実戦配備した。これらの機体の多くは、世界有数の高性能機であった。

 零戦や一式戦闘機隼、四式戦闘機疾風は有名であるが、実は日本の航空機で「掛け値なし」で世界最高の高性能を実現していた機種は水上機なのである。余談であるが、ブログ管理者は、飛行艇が非常に好きだということだけは付け加えておこう。それは海と空が汚れた心を洗い流すからである。

 

開発

02_九四式水偵
(画像はwikipediaより転載)

 

 1932年、海軍は七試水上偵察機の開発を指向する。海軍から出された性能要求は、600馬力91式エンジンを使用すること、三座機であること、主翼が折りたためること、艦載機として使用するためにカタパルト射出が可能なこと、航続距離が長いこと、安定性が良好なこと、最高速度が241km/hであること等である。これを受けた川西航空機では関口英二技師を設計主務者として開発を開始、1932年3月から設計開始、1933年2月には試作1号機が完成、2月6日からテストが行われた。機体は保守的な複葉布張りであったが、従来機に比べ木製部品の使用割合は大幅に下がり、胴体、主翼の桁はジェラルミン製、小骨は木製という一歩進んだ機体であった。

 エンジンは広島海軍工廠で開発された国産の水冷式九一式600馬力エンジン(後期型では九一式750馬力エンジンに換装)で、プロペラは2翅(後期型は4翅)で最高速度は237.1km/hで性能要求の241km/hには及ばなかったものの現用の九〇式3号水偵を上回っており、安定性、航続距離に関しては極めて優秀であった。この七試水偵の高性能は、海軍関係者をして「本機の出現は航空作戦に寄与すること大なり」と言わしめたほどでドイツが本機のライセンス生産を要求したとも言われている。1934年5月26日、九四式水上偵察機として制式採用された。

 

12型

 九四式水偵のエンジンは、1937年からはより高性能で信頼性の高い瑞星11型(870馬力)エンジンに換装された。この換装は水冷エンジンから空冷への換装であったが、九四式水偵はそもそも余裕のある設計であったため換装は比較的容易であった。これにより最高速度は278km/hに増大、航続距離も2,463km、時間に換算すると11.36時間の長時間飛行が可能であった。この長時間飛行に対応するために本機では前後席どちらでも操縦することが可能となっている。この瑞星搭載型は1938年11月24日に九四式2号水偵(のち12型と改称)として制式採用、それまでの九四式水偵は1号水偵(のち11型と改称)となった。1941年まで生産された。

 

生産数

 生産は川西航空機で試作機2機、1号(11型)が183機、2号(12型)が288機の合計373機、日本飛行機で両型合計で57機製造されている。総生産数は530機。

 

 

 

 

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01_南満州鉄道本社
(画像は南満州鉄道本社社屋 wikipediaより転載)

 

超要約

 

 日露戦争後、日露関係は急速に改善、1907年に日露協約を結んだ。これは極東での両国の特殊権益を認め合うというもので双方にとってメリットのあるものであった。1916年に第4次日露協約が締結されたが、翌年のロシア革命によって成立したソビエト連邦政府によって破棄された。

 

 

日露協約とはなにか

 

そのまえの国際情勢

 日露戦争が終わるとロシアは進出の矛先を満洲からバルカン半島に移すことになる。そしてロシアがドイツと緊張関係になると、ドイツに敵対している英国はロシアに接近する。1907年、ロシアは英国とは英露協商、日本とは日露協約を結ぶこととなった。これ以降、利害が一致したこの三国の関係は緊密になっていく。

 

第一次日露協約

 日本とロシアの間で結ばれた日露協約は1907年から1916年まで合計4回に及ぶ。内容は主に両国の極東での特殊権益を相互に認めることで一貫している。まず最初の1907年の第一次日露協約では、日露間の条約と日露が清国との間に結んだ条約を尊重することが決められた。さらに清国の独立、門戸開放、機会均等等が決められた。「清国の独立」とは要するに清国はどこかの国の所有ではなく、みんなで美味しく頂きましょうということだ。決して清国の側に立ったものではない。

 この第一次日露協約には秘密条約があった。それはロシアが持っている北満洲、外蒙古での特殊権益を認める代わりに日本の南満州、朝鮮半島での特殊権益も認めるというものだ。因みに「特殊権益」とは、簡単にいうと「戦争で奪い取った権益」のオブラートに包んだ言い方だ。

 

第二次日露協約

 1910年に第二次日露協約が結ばれる。これは米国の国務長官ノックスによって提案された満洲の鉄道を全て清国に返還、その後、米・英・仏・露・清・日の六か国によって共同管理を使用という提案だ。中国市場に出遅れた米国はどうしても中国の権益が欲しかったのだが、米・清国以外には何のメリットもないためその他4ヶ国によって拒否されてしまった。

 第二次日露協約とはこの提案を拒否することを日露両国が確認したものである。

 

第三次日露協約

 1912年、第三次日露協約が結ばれる。これは同年に中国で起こった辛亥革命に対応するためのもので、内蒙古の西部をロシア、東部を日本が利益を分割するということを取り決めたもの。

 

第四次日露協約

 1916年に結ばれた最後の日露協約。第一次世界大戦中の協約で日露の関係強化と第三国の中国支配阻止、そしていつも通りの極東における両国の特殊権益の擁護を再確認したものだ。第一次世界大戦でドイツ・オーストラリア、イタリアの三国同盟に対抗したのは、主に英・仏・露・日である。英・仏・露は前述の英露協商にフランスが加わった三国協商、さらに日露協約という協約によって成り立っている。それを再確認したかったのだ。因みに露仏は1894年に露仏同盟、英仏は1904年に英仏同盟、日本と英は1902年に日英同盟を結んでいる。ガチガチの同盟関係をさらに確認したことになる。

 しかし1917年にとんでもないことが起こる。ロシア革命だ。ロシア革命により帝政ロシアは滅亡してしまった。新しく権力を握ったソビエト連邦政府は日露協約を破棄。10年近く続いた日露の同盟関係は終わりを告げた。

 

 

 

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BB-57戦艦サウスダコタ01
(画像はwikipediaより転載)

 

 戦後も活躍したアイオワ級戦艦ほどの知名度はないが、第二次世界大戦、特に太平洋戦争では最も激しく戦った戦艦の一つである。第二次世界大戦時の最新鋭艦であり、米海軍所属の戦艦では数少ない戦艦同士の砲撃戦を経験したクラスだ。

 

戦艦サウスダコタ級 〜概要〜

 

性能

 基準排水量 35000トン
全長 207.4m
全幅 33m
吃水 10.3m
機関出力 13000hp
最大速度 27ノット
航続距離 15000海里/15ノット
乗員 1793名
武装 45口径40.6cm(16インチ)砲 3連装3基
   12.7cm両用砲 2連装10基
   28mm機関砲4連装7基
   20mm機関砲 35基
装甲 舷側31cm 甲板14.6cm 主砲45.7cm 
同型艦 4隻

 

特徴

 ノースカロライナ級の改良型として建造された本級は、当初は35.6cm(14インチ)砲搭載を予定していたノースカロライナ級とは異なり、計画当初から40.6cm(16インチ)砲を搭載していたのが特徴である。これはロンドン海軍軍縮条約中の「エスカレーター条項」に沿ったもので、もしも参加国が条約を破った場合、参加国は16インチを搭載する戦艦の建造が可能となっていた。本級の設計を開始したのが1937年3月で、日本の条約脱退以降であったために16インチ砲搭載での設計が可能になったのである(日本の条約脱退は1936年12月)。

 排水量は35000トンでノースカロライナ級と同等だが、搭載の16インチ砲の直撃に耐えるための側面装甲がかなりの重量になってしまうために全長を15mほど短くしている。これによって装甲の面積を縮小化および艦体の軽量化が達成されたことにより、310mmの重装甲を施すことが出来た。しかし16インチ砲直撃弾の貫通を防止するために必要な装甲厚は390mmなので不足分は19度の傾斜角をつけることで解決している。

 全幅は33mとノースカロライナ級戦艦と同じためサウスダコタ級戦艦はノースカロライナ級戦艦に比べてずんぐりとした艦形となっている。これらの設計により心配されていた速度であるが、機関の増強により27ノットでの走行が可能となっている。但し、ずんぐり形状の艦体は高速を出しにくく、特に艦首部の浮力低下が問題となった。戦争後半に艦首部に40mm4連装機関砲を装備するようになってからは凌波性は絶望的に低下している。

 全長の短縮と重装甲化で居住性は悪くなった。因みにノースカロライナ級戦艦とサウスダコタ級戦艦の外観上の特徴は煙突の数でノースカロライナ級戦艦が2本であるのに対してサウスダコタ級戦艦は1本煙突である。

 

建造

 サウスダコタ級は1番艦サウスダコタ、2番艦インディアナ、3番艦マサチューセッツ、4番艦アラバマの4隻が建造された。1〜3番艦までは1938年12月に発注、4番艦のみ1939年4月に発注されている。起工は、1番艦サウスダコタが1939年7月、2番艦インディアナが1939年11月、3番艦マサチューセッツがは、1939年7月に起工、4番艦アラバマが1940年2月である。

 

戦艦サウスダコタ級の活躍

 

1番艦サウスダコタ

BB-57戦艦サウスダコタ
(画像はwikipediaより転載)

 

 1942年3月には1番艦サウスダコタが就役、7月26日まで2ヶ月弱の訓練を終え、東海岸のフィラデルフィア海軍工廠を出航、パナマ運河を通過し太平洋に配備された。最初の実戦は1942年10月の南太平洋海戦で日本機の攻撃により250kg爆弾の直撃を受けている。11月にはノースカロライナ級戦艦ワシントンと共に第三次ソロモン海戦に参加、激戦の中、大小27発被弾している。その内徹甲弾は1発だけで3番砲塔下に命中した。

 ニューカレドニアに待機していた工作艦プロメテウスの修理を受けた戦艦サウスダコタは本土に帰還、完全修理とオーバーホールの後、1943年4月より大西洋で作戦行動を行った。8月には米本土に帰還、9月より再び太平洋に移動、11月にはギルバート諸島攻撃、1944年1月にはマーシャル諸島の攻撃に活躍する。その後、マリアナ諸島の攻略戦に参加、6月にはマリアナ沖海戦に参加、日本海軍の彗星艦爆より250kg爆弾の直撃を受ける。

 サウスダコタは米本土に帰還、修理の後、フィリピン、香港、沖縄攻撃に参加した。7〜8月には日本本土を砲撃、終戦を迎えた。1946年6月には大西洋予備役艦隊所属、1947年1月予備役編入、1962年6月に除籍され、スクラップとして売却された。

 

2番艦インディアナ

BB-58戦艦インディアナ
(画像はwikipediaより転載)

 

 2番艦インディアナは、1942年4月に就役、1942年11月1番艦サウスダコタの代わりに空母エンタープライズに合流、ソロモン諸島進攻支援の後、1943年10月真珠湾に帰還。1943年11月にはタラワ、クェゼリン環礁砲撃に参加。1944年2月修理のため真珠湾に後退した。4月には第58任務部隊に合流。トラック島攻撃、ポナペ島砲撃、マリアナ諸島攻略に参加した。6月にはマリアナ沖海戦に参加、至近弾を受けるも大損害には至らなかった。8月にはフィリピン攻略に参加した後、一旦米本土に帰還する。

 1945年1月再び第58任務部隊に合流、沖縄攻撃、本土への艦砲射撃を行い終戦を迎える。1946年9月に予備役編入され、1947年9月退役。その後、太平洋予備艦隊配属となり、1962年1月除籍、スクラップとして売却された。

 

3番艦マサチューセッツ

BB-59戦艦マサチューセッツ
(画像はwikipediaより転載)

 

 3番艦マサチューセッツは1942年5月に就役、10月には地中海に向かい、西部方面任務群と合流する。11月にはフランス海軍戦艦ジャン・バールの砲撃を受け反撃、フランス駆逐艦2隻を撃沈した。同月、米本土に帰還する。その後、太平洋戦線に配属され、1943年12月よりナウル、クェゼリン環礁等の砲撃、上陸支援に参加した後、1944年5月米本土に帰還する。

 1944年10月フィリピン攻撃、1945年には沖縄戦に参加、本土砲撃を行い終戦を迎える。1947年3月に退役、1962年6月に除籍された。除籍後はバトルシップ・コーヴに博物館艦として保存されている。

 

4番艦アラバマ

BB-60戦艦アラバマ

(画像はwikipediaより転載)

 

 4番艦アラバマは1942年8月就役、訓練、検査を行った。1943年5月1番艦サウスダコタと共に船団護衛を目的としてイギリスに配備された。1943年11月、太平洋戦線に配属、ギルバート、マーシャル諸島攻撃に参加、1944年6月にはマリアナ、パラオ諸島攻撃、10月にはフィリピン攻撃に参加した。1945年には沖縄、日本本土攻撃に参加して終戦を迎えた。1947年退役、太平洋予備艦隊配属。1962年除籍、記念館としてアラバマ州モービル湾に展示された。

 

戦艦 サウスダコタ級(模型)

 

ハセガワ 1/700 アメリカ海軍 戦艦 サウスダコタ スーパーディテール プラモデル

 サウスダコタ級戦艦の中で最も多くの修羅場をくぐり抜けてきた1番艦サウスダコタ。南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦、マリアナ沖海戦と30発近い砲弾と爆弾を受けながらも生き抜いた歴戦の艦。

 

トランペッター 1/700 米海軍 サウスダコタ級 戦艦 BB-59 マサチューセッツ

 地中海ではフランス戦艦と交戦し沈黙させた他、駆逐艦2隻を撃沈。その後は太平洋戦線で艦砲射撃に活躍した3番艦マサチューセッツ。現存するサウスダコタ級の1隻。

 

トランペッター 1/700 米海軍 サウスダコタ級 戦艦 BB-60 アラバマ

 上陸支援、艦砲射撃に活躍したサウスダコタ級4番艦。太平洋に地中海にと広い地域で活躍した。サウスダコタ級現存艦の内の1隻。

 

まとめ

 

 戦艦サウスダコタ級はロンドン海軍軍縮条約以降に建造された戦艦で第二次世界大戦時には新鋭戦艦として多くの戦場で武勲を挙げた。特に1番艦サウスダコタは、第三次ソロモン海戦で日本海軍の金剛型戦艦と激しい砲戦を行っている。米海軍で最も激しく戦った戦艦の1隻といえるだろう。

 

関連リンク

前級ノースカロライナ級戦艦

 

次級アイオワ級戦艦

 

 

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