トイレで読む向けブログ

ちゃんとトイレで読んでるんだろうなー(怒) 〜 since 2005 〜

赤松貞明
(画像はwikipediaより転載)

 

 赤松貞明中尉は、太平洋戦争全期間で活躍した主要な搭乗員達が10代後半から20代前半で開戦を迎えていたのに対して、戦闘機搭乗員としては薹(とう)が立った31歳であり、彼らの教官クラスの教官クラスと言っていいほどの搭乗員である。それだけに腕は確かであり、豪放磊落で多彩なエピソードを持っている海軍航空隊の中でも有名な男だった。総撃墜数は27機前後と推定され、内11機が日中戦争での戦果である(秦P183)。総飛行時間6000時間。武道の達人でもあった。

 

赤松貞明の経歴

 

そこそこ詳しい経歴

 1910年7月高知県生まれ。1928年6月佐世保海兵団入団。1931年3月第17期操縦練習生(操練)を卒業した後、赤城、龍驤、加賀乗組を経て横須賀、大村各航空隊に配属される。1937年12月には、13空に配属され、中支戦線に出動。1938年9月に蒼竜乗組。太平洋戦争開戦時は、台湾の第3航空隊に所属していた。開戦後は、3空隊員として蘭印航空撃滅戦に参加、1942年5月本土に帰還する。内地で教員勤務の後、1943年7月331空に異動した。カルカッタ攻撃等で活躍したのち本土に帰還。1944年3月に開隊した302空に異動、終戦まで302空隊員として本土防空戦に活躍した(秦P183、サカイダP86)。

 ものの本には、赤松貞明中尉は「戦闘機隊の古豪」とあるが、まさに古豪という言葉ばぴったりの人物だ。明治生まれで操練17期出身。太平洋戦争で名を馳せた著名なパイロットでは、岩本徹三中尉が操練34期、坂井三郎中尉が38期、原田要中尉が35期と出身期が桁違いに若い。これらの搭乗員の年齢と比べても6歳も年長である。

 赤松中尉が卒業した操練とは基本的に水兵から選抜された隊員が航空機搭乗員として訓練を受けるコースで、赤松貞明が操練を修了したのは1931年、岩本徹三などが操練を終了したのは1936年から1937年なので5年以上の経験の差がある。5年というと大したことが無いように感じるかもしれないが、異常に体力と精神力を使うパイロットの4年というのは通常の人とは異なる。

 

 

日本ニュース254号 5:01熱弁をふるっているおじさんが赤松中尉

 

撃墜350機の超超超エース!

 赤松中尉は日中戦争で11機を撃墜。日中戦争ではトップクラスの撃墜数だ。一番は岩本徹三の14機であるが、赤松自身は自身の手記では日中戦争時の撃墜数を242〜243機と主張している。これは記録に残っていると書いてあるが無論記録には残っていない。そして太平洋戦争まで含めると赤松自身の主張する撃墜数は何と350機である。これもまたタイトルには「撃墜350機の世界記録」と書いてあるが(赤松P105)、後半になると撃墜340機に変わってしまっている(赤松P131)。

 まぁ、人間細かい事に拘ってはいけない。海軍航空隊にその人ありと言われた赤松中尉である。撃墜数が10機程度違うことなどはどうでもよいのだ。この350機撃墜も恐らく、世界最高記録であるドイツ空軍のエース、エーリッヒハルトマンの352機撃墜を意識したものだろう。事実かどうかなどもこの際小さな問題だ。しかし残念ながら、赤松中尉は、太平洋戦争では撃墜スコアを伸ばすのが困難だったようだ。理由は初戦は味方が多すぎ、後半は味方があまりにも少なすぎたからだという。結果、赤松中尉の太平洋戦争での撃墜数はわずか百数十機程度であったという(赤松P106)。

 

大言壮語実行型

02_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

 この話だけをみると赤松貞明中尉とはただのインチキ野郎じゃねーのか?という話になるがそうではない。そもそも坂井三郎中尉によると、撃墜王になるタイプの多くは、有言実行型であり、時として大言壮語実行型ですらあるという(∈箘P162)。実際、トップエースの一人で、撃墜216機を主張する搭乗員、岩本徹三中尉も「腕も立ったが口も達者だった」と小町定飛曹長に言われるほど大言壮語だった(川崎P272)。撃墜王の全てが大言壮語型だった訳ではないが、彼らは多くの戦場に立ったベテラン搭乗員であることには違いない。大言壮語している人が必ず実力が無いとは限らないのだ。そもそも、洋の東西問わず、豪傑なんて嘘と過剰な自己アピールだらけだ。

 赤松中尉もその例に漏れず、大袈裟に自己アピールするのだが、その空戦の腕となると尋常ではない。太平洋戦争開戦時にすでに31歳となっており、激しく体力を使う搭乗員としてはすでに旬が過ぎているはずなのだが、開戦当初から第一線で活躍、1945年5月29日には、あの万能戦闘機P51マスタングの75機編隊にこれまた格闘戦に不向きと言われる迎撃機雷電を駆りたった一人で突入、第45戦闘飛行隊のルーファス・ムーア少尉機を撃墜(サカイダP88)、さらに同年7月には同じく雷電を駆ってF6Fヘルキャットを撃墜している等(〆箘P252)、数々の武勲を挙げている実力の人なのだ。この尋常ならざる飛行機の操縦技術に関しては、戦後、赤松中尉が操縦する飛行機に同乗した横山正男上飛曹はその操縦技術の高さに舌を巻いている(横山P211)。

 

 

ベテランの空中戦

03_P51D
(画像はwikipediaより転載)

 

 ベテランの空戦とはドッグファイトをやって敵機を撃墜するのではなく、それらを高空から見守り、傷付いたり、不調を来した敵機を攻撃すると言われているが(久山P124)、赤松中尉の空戦がまさにそれで後輩の零戦搭乗員坂井中尉に「空中戦で生き残り、勝ち抜くためには敵編隊の端の一番弱い奴から叩いていくのが理想と語っている(〆箘P252)。同様のことを横山上飛曹にも語っているので(横山P210)、これが赤松中尉の戦い方であると考えて良い。

 因みに上記の空戦法はトップエースの一人と言われる岩本徹三中尉も行っており、岩本中尉もこの戦法でトップエースと呼ばれるようになったようだ。しかし、この空戦法、みんなが上空に待機していたらダメな訳で、誰かドッグファイトを行う「損な役」が必要となってくるような気がする。と思っていたら、同じくトップエースの一人である西澤廣義飛曹長はまともにドッグファイトをやるタイプのようで、やはり岩本中尉の戦法が気に入らなかったらしく、岩本徹三中尉に食ってかかったこともあったようだ(神立P199、角田P358)。

 

 

雷電大好き!

04_雷電
(画像はwikipediaより転載)

 

 それはともかく、赤松中尉は変人であっただけに航空機の好みもまた変わっていたようだ。赤松中尉がこよなく愛した航空機は、零戦でも紫電改でもなく、「殺人機」とまで呼ばれた局地戦闘機雷電であった。この雷電は、1944年1月頃から実戦に配備された航空機で、大型機の迎撃を主任務とするインターセプター(迎撃機)であった(伊藤P244)。二式大艇や一式陸攻等の大型機が使用する大型の火星エンジンを機首に搭載しているため高速で馬力はあるものの旋回性能は悪く、「雷電国を滅ぼす」とまで毛嫌いされており(‐福田P218)、上記の岩本中尉も雷電に対しては厳しい評価を下している(岩本P251)。

 ベテラン搭乗員に嫌われた理由は、上記の特性以外に大型のエンジンを搭載したために視界が悪く、特に着陸時に非常な注意が必要であったこともある。しかし赤松中尉はこの雷電がお気に入りだったようで、赤松中尉は、世の中にこんな傑作機はないとほれ込んでいたようだ(⊂福田P194)、さらに坂井中尉に対しても「雷電はいい戦闘機だ。もう少し燃料が積めたらもっといいが」と語っており(〆箘P252)、雷電に相当ほれ込んでいたようだ。この雷電でP51の75機編隊に突入してP51を撃墜したり、格闘戦能力が優れたF6Fヘルキャットとドッグファイトをやり撃墜したというのだから驚きである。坂井中尉に言わせれば、雷電でヘルキャットと互角に渡り合える戦闘機パイロットは赤松中尉の他にいないだろうとのことだ(〆箘P252)。

 

 

こんなエピソードも。。。

05_雷電
(画像はwikipediaより転載)

 

 但し、操縦、空戦以外では部下の結婚式に泥酔して全裸で乱入、踊り狂ったりとかなりの傑物だったようだ(亀井P85)。武道等にも卓越しており、柔道、相撲、水泳、剣道等合わせて11段の猛者であった(亀井P86。坂井中尉の記憶では15段。〆箘P251)。いわゆる豪傑型の人物で、後年、坂井三郎中尉がヘンリーサカイダ氏の取材に対して「とんでもない気分屋で、変人で、すぐに暴力を振るった」と語っていたようだが(サカイダP86)、その後、歳を重ねるごとに人格を増し、部下からも尊敬畏敬される存在となったという(∈箘P124)。

 そしてこれは全くの余談であるが、赤松中尉はけっこうな「おデブさん」であったようだ(肥田P42)。「太っている」というのは明確な基準がある訳ではないので何とも言えないが、部下であった亀井中尉も赤松中尉は太っていたと書いているので当時の感覚としては「おデブさん」であったのだろう(亀井P85)。「おデブさん」戦闘機搭乗員は他にも10機以上を撃墜した艦隊戦闘機隊のエース菊池哲生上飛曹等がいるので空戦に体形はあまり関係ないのだろう。

 

 

終戦時は徹底抗戦

 赤松中尉が所属した302空は、首都防空をに担う部隊として活躍したが、この部隊は、終戦後に戦争継続を主張、降伏を拒否したことでも有名である。302空司令の小園安名大佐は熱血漢で有名であり、開戦時は台南空副長、251空司令等を歴任している実戦派である。指揮官として以外にも斜め銃と呼ばれる機体の上方に30度程度の角度で付きだした機銃を考案したりと大きな業績のある人物であるが、熱血が災いして終戦時はちょっとした騒ぎとなった。

 結局、終戦後の抗戦は未遂に終わったが、赤松中尉も同様に徹底抗戦を主張していたようだ。302空は終戦後各地に戦争継続のビラを撒いたりしていたが、赤松中尉もまた愛機雷電に乗り、横須賀航空隊に戦争継続を訴えに来たという(坂井P35)。8月22日にはトラックに武器弾薬、食糧を満載して木曽山中に立てこもるというようなことも計画していたらしい(横山P245)。冷静に考えればトラック数台分の武器弾薬で抗戦したところで無駄なのであるが、こういった行動に出る心理というのは当時の人でなければ分からないのだろう。

 

 

プロフェッショナルの戦後

 これらの計画は実行されなかったようであるが、軍隊やパイロットが性に合っていた赤松中尉の戦後は不遇だったようだ。飛行機を奪われた赤松中尉は、アルコール依存症となり、戦友たちが資金を出し合って贈った軽飛行機も酒代捻出のため手放した。戦友たちにも見放され、高知県の小さな喫茶店の店主となったのち、1980年肺炎で死去した(秦P183)。70歳という死ぬには少し若すぎる年齢であったが、専門家、プロフェッショナルとは人生を全てその道に賭けた人であり、全て賭けたのだからその道から外れれば何もない。真のプロフェッショナルであったともいえる。

 

参考文献

  1. 秦郁彦『日本海軍戦闘機隊 付エース列伝』酣燈社1975年
  2. ヘンリー・サカイダ『日本海軍航空隊のエース』大日本絵画 2000年
  3. 赤松貞明「日本撃墜王」『トラ・トラ・トラ』太平洋戦争ドキュメンタリー1巻今日の話題社1967年
  4. 〆箘羯囲此慘軅錣凌深臓拗崔娘1996年
  5. ∈箘羯囲此慘軅錣留震拭找軸講談社2002年
  6. 坂井三郎『零戦の最期』講談社1995年
  7. 川崎浹『ある零戦パイロットの軌跡』トランスビュー2003年
  8. 横山正男『あこがれの予科練』旺史社2002年
  9. 伊藤進「雷電”空中殺法”厚木空の不屈の闘魂」『海軍戦闘機列伝』光人社2012年
  10. ‐福田晧文「私の運命をかえた「愛児」雷電と共に」『海軍戦闘機列伝』光人社2012年
  11. ⊂福田晧文『指揮官空戦記』光人社1994年
  12. 久山忍『蒼空の航跡』光人社2014年
  13. 神立尚紀『ゼロファイター列伝』講談社2015年
  14. 角田和男『零戦特攻』1994年
  15. 亀井勉『空母零戦隊』今日の話題社1979年
  16. 肥田真幸『青春天山雷撃隊』光人社1999年

 

 


ミリタリーランキング

01_零戦52型
(零戦52型 画像はwikipediaより転載)

 

 零戦52型とは22型を改良した機体で22型の両翼端を50cmずつ切り落とした上で滑らかに成型している。エンジンは22型と同じ栄21型エンジンであるが、排気管を集合排気管から推進式単排気管に変更した。これにより最高速度は565km/hと22型を20km/h以上上回る高性能を発揮した反面、水平方向の旋回性能は低下、航続距離も落ちた。その後、防弾装備や機銃等の重装備化が進み機体重量は増え、機動性は低下していった。それでも後継機がなかったこともあり、零戦各型中最高の6,000機以上が生産された。

 

零戦52型(A6M5)とは!

 

 

何で42型じゃないの?

 1943年夏、22型の性能向上型試作機が完成した。この機体は仮称零式艦上戦闘機22型改と呼ばれ、22型の主翼を32型同様に両端50cmずつ切り落とし、補助翼とフラップの改修、エンジンに推力式単排気管を採用した機体であった。簡単に言うと22型と32型を合わせたような機体で、あった。「何で32型をベースにしないの?」と思う人もいるかもしれないが、22型は32型以前の零戦と異なって翼内燃料タンクが追加されているのだ。この翼内燃料タンクが追加された22型の主翼を32型同様の長さにして、さらにその翼端を滑らかに修正したのが52型である。

 この零戦に限らず、海軍の航空機の型式番号には法則があって、下一桁がエンジンのマイナーチェンジ、二桁目が機体のマイナーチェンジを表している。つまり全ての航空機は11型から始まり、機体設計が変更されれば二桁目が「2」になり、21型、さらにエンジンが改良されれば22型という風に変化していく。零戦の場合、11型からスタートして、主翼翼端を50cm折り畳めるようにしたのが21型、さらにその主翼の50cm部分を切断して、エンジンも変更したのが32型、さらにエンジンをそのままにして機体を21型と同じ形に戻したのが22型となっている。52型とは22型の機体をさらに変更したので42型となるはずであるが、42型は「死に番」で縁起が悪いのか何なのか52型となっている。

 

意外に高性能だった

 エンジンは栄21型であるが、排気管をそれまでの集合式排気管から推進式単排気管に変更したために最高速度は零戦各型の中では最高の565km/hをたたき出した。零戦21型が533km/hなので30km/h以上の高速化に成功した。主翼の長さが同じで同じエンジンを装備している32型と比べても25km/hの増加となっており、この推進式単排気管の効果が顕著である。この推進式単排気管はエンジンから出た排気を後方に吐き出すことでロケット効果となり速度アップにつながると言われている。

 この結果、アップしたのは最高速度だけでなく、上昇力も高度6,000mまでの上昇時間が7分01秒とそれまでの32型の7分19秒、21型の7分27秒を圧倒している。実用上昇限度も21型が10,300m、32型が11,050mであったのが52型は11,740mとこちらも圧倒している。反面、水平方向の運動性能は低下しており、高速化したため着陸速度は増加、航続距離も燃料搭載量が22型の580Lに対して570Lになったのでちょっとだけ減っているハズである。後期型はエンジンに自動消火装置が装備されたため20kg全備重量が増えている。この自動消火装置が良かったのか何なのか、歴戦の搭乗員である斎藤三朗少尉は、火災になる率が少ないと語っている(斎藤P96)。零戦52型は三菱で747機製造されている他、中島飛行機でも多数生産された。

 

52型甲(A6M5a)

02_零戦52型
(零戦52型 画像はwikipediaより転載)

 

 1943年11月に一号機が完成。52型の機銃をドラム弾倉式の九九式二号銃三型からベルト給弾方式の四型に変更した機体である。これにより装弾数が100発から125発に増加している。さらに主翼外板を0.2mm厚くしたため制限速度は52型の667km/hから741km/hに引き上げられた。

 

52型乙(A6M5b)

 1944年4月に一号機が完成。52型甲の胴体右側の7.7mm機銃を三式13mm機銃に換装した型である。左側の7.7mm機銃は残しているので20mm機銃2門、13mm機銃1門、7.7mm機銃1門という3種類の銃を撃てる型である。それぞれの機銃の射程距離や弾道性能が異なるため実用性はあるのかという疑問もなくはない、むしろ「胴体左側の7.7mm機銃は必要なのか?」という疑問も感じないわけではない。やっちゃった感を感じなくもない。三年式13mm機銃は米国のブローニングM2重機関銃を非常にリスペクトした。。。つまりはパクった日本製の重機関銃で弾道特性も良好であった。さすが天才ジョン・ブローニングというところだ。

 その他の52型甲からの変更としては、点背部には8mmの防弾版を装備可能であること、機体によっては風防前面に防弾ガラスを装備していること、胴体座席側方の外板の厚さが0.3mm増加されていること等がある。470機製造された(小福田P189)

 

52型丙

 1944年9月10日一号機が完成。6月に起こったマリアナ沖海戦の戦訓を取り入れた改良型。マリアナ沖海戦の翌月である7月23日に海軍から試作が指示されて50日あまりで完成したというスピード設計であった。武装は強力で20mm機銃2門、13mm機銃3門でそれぞれ携行弾数が20mm機銃が各125発13mm機銃が240発(胴体内機銃のみ230発)である。乙型にあった胴体左側の7.7mm機銃はさすがに意味がなかったようで取り外されている。そして爆弾も両翼に30塲弾2発または60kg爆弾2発、または1番28号ロケット弾左右各5発である。とりあえずあるものは全部付けたという感じである。

 防弾性能も上がっており、52型乙から装備されている風防前面の防弾ガラスに加え、後部にも厚さ55mmの防弾ガラスと厚さ8mmの防弾鋼板が追加された。しかし燃料タンクに関しては防弾処置はされていないので相変わらず「炎の翼」である。このようにてんこ盛りにした52型丙であったが、エンジンは32型以来の栄21型、推進式単排気管を装備したものの上記のデラックス装備のおかげで重量が195kgも増えてしまうと最高速度も541km/hに低下、その他性能も全体的に低下してしまった。生産数は500機弱と言われている。

 

53型丙

 

03_零戦52型丙
(52型丙 画像はwikipediaより転載)

 

ボク金星が好き!

 これだけ装備すれば重量増加は当たり前、そんなことは三菱の設計陣は承知していた。このためにもういい加減栄エンジンは止めて金星62型エンジンを装備したいと海軍にお願いしたものの、「エンジンまで替えては時間がかかり過ぎるからダメ!」という塩対応で栄エンジンのままで製造することになった(堀越P108)。但し、さすがに栄21型はもう厳しいのは海軍も分かっていたのか、金星はダメだけど栄の新型モデル栄31型エンジンを使用する予定であった。この栄31型エンジンは、水メタノール噴射装置を装備したパワフルなエンジンであった。水メタノール噴射装置とは、過給器により圧縮された空気を吸い込んでエンジンが過熱するのを水をぶっかけて冷やすというもので、高空では水にメタノールも入れておかないと水が氷になってしまうからである。

 

作ってはみたものの。。。

 まあ、簡単に説明しただけでも構造が複雑ではるのは理解できると思う。エンジンに関しては世界から一歩遅れている日本。こういう面倒なエンジンを作るとどうなるかというと、当然、「エンジンが完成しない!」という状況になってしまったのである。このためエンジンは栄21型のまま作ったのが52型丙だったのだ。しかし、一応、栄31型エンジンを装備した機体も作るには作った。これは1944年12月に一号機が完成している。エンジンを換装した他には、各部の補強、燃料タンクの防弾化もした。その結果、搭載燃料は500Lと52型から何と70Lも減ってしまった。そしてこれらの改良によって重量は52型丙に比べ107kgも増加してしまった。

 しかしエンジンが最新の1,100馬力栄31型なので、最高速度は期待できるのかと思いきや、545km/hと52型丙に比べ5km/hほど速くなったに過ぎなかった。エンジンの調子は悪くて速度も出ない。53型丙はちょっとだけ作って(多分1機だけ)生産を中止してしまった。因みにこの1機、1945年2月16日の米艦載機関東空襲(ジャンボリー作戦)時には53型丙が横須賀にあったが、空襲を避けるために他の実験機と共に厚木に避難させたという(羽切P391)。まだまだ実戦では使えるレベルではなかったようだ。

 

52型の実戦配備と厳しい評価

04_零戦52型
(画像はwikipediaより転載)

 

 52型の実戦配備は1943年10月頃、ラバウルではなかったかと言われている(野原P209)。梅本氏によるとニュージーランド空軍が新型零戦を確認したのが9月31日であったようなので(梅本P105)、52型が最初に配備されたがラバウルであれば、やはり9月下旬から10月上旬の辺りであったのだろう。少なくとも11月には島本飛曹長が52型で出撃しているのでこの時点ではすでに配備されていたのは間違いない(島川P259)。1943年秋頃から実戦に投入されるようになった新型零戦。搭乗員はどう感じていたのだろうか。

 まず「大空のサムライ」ことエースパイロットの坂井三郎中尉は、零戦は21型こそが最高であり、エンジンのパワーアップを伴わない(52型は)零戦本来の軽快性と上昇力が失われ苦戦を強いられる結果となったと語っている(坂井P240)。つまりは空戦性能も航続距離も落ちてしまった52型はダメということだ。そして同じく海兵68期のベテラン梅村武士大尉も52型はあまり評価していなかったようで、「零戦もついにこんなになってしまった」とまで言っている(梅村P85)。

 

いやいや52型は神の乗り物ですわ!

 逆に二瓶上飛曹は零戦52型丙はすごく使いやすい機体と言っているし(二瓶P387)、田村中尉に至っては21型から52型への変更はロバからサラブレッドに変わったようなものとまで言っている(田村P413)。ベテラン搭乗員でも18機撃墜したと言われている斎藤三朗少尉もスピードもありエンジンの馬力も強い、さらには52型は火災になる率が少ないと52型を評価している(斎藤P30、96)。そしてラバウルの激戦をくぐり抜けたエース大原亮治飛曹長はどの零戦が一番良かったかの質問に対して、52型と即答している(梅本P106)。

 当時の搭乗員の手記をざっと見てみると52型はおおむね好評であるといってよい。艦攻搭乗員であった肥田真幸大尉も52型に対しては好評しており、300ノット(約540km/h)を出してもビクともしないと評価している。しかし同じく高速を出した梅林上飛曹は、350ノット(約600km/h)を超えるとフラッターや表面に皺が寄ったり操縦桿が動きにくくなると指摘している(梅林P267)。これは50ノットの差の問題なのか、機体の個体差なのかは分からないが、試験中に二度の空中分解を起こした11・21型に比べれば強度は大幅に改善されていると言っていいだろう。

 どのみち根本的な問題は当時の日本の技術力では欧米のような基礎技術力が無かったため、強力なエンジンを製造することが出来なかったことにある。エンジンに合わせて機体を作るのは当然であり、高出力を出せないエンジンを持つ航空機に頑丈な構造を求めるというのも無理な話ではある。この点に関しては、やはり坂井中尉の上記の指摘が正鵠を射ているといえる。

 

参考文献

 

  1. 秋本実『日本軍用機航空戦全史』5巻 グリーンアロー出版社 1995年
  2. 斎藤三朗『艦隊航空隊 2激闘編』 今日の話題社 1987年
  3. 堀越二郎「零戦の諸問題への回答」『伝承零戦』1巻 光人社 1996年
  4. 羽切松雄「勇者たちの大いなる20・2・16」『伝承零戦』3巻 光人社 1996年
  5. 梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記2』大日本絵画 2013年
  6. 島川正明『サムライ零戦隊』光人社1995年
  7. 坂井三郎「F6Fとの対決で知った零戦の真実」『伝承零戦』1巻 光人社 1996年
  8. 梅村武士「わが愛しき駿馬”三二型”防空戦交友録」『「空の少年兵」最後の雷撃隊』 光人社 1992年
  9. 二瓶輝「本土防空戦・十八歳の記」『伝承零戦』3巻 光人社 1996年
  10. 田村一「九州上空にグラマンを射止めたり」『伝承零戦』3巻 光人社 1996年
  11. 斎藤三朗「瑞鶴戦闘機隊」『艦隊航空隊況稙編』 今日の話題社 1987年
  12. 肥田真幸『青春天山雷撃隊』 光人社 1999年
  13. 梅林義輝『海鷲ある零戦搭乗員の戦争』 光人社 2013年

 

 


ミリタリーランキング

01_巡洋艦明石
(第二特務艦隊旗艦明石 画像はwikipediaより転載)

 

第二特務艦隊

 


(映像は全く関係のない日本海海戦)

 

護衛艦隊を派遣

 1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発すると翌月15日には日本も日英同盟を根拠にドイツに対して最後通牒を行い連合国として強引に参戦する。むろん、日本の目的は、中国山東半島青島や南洋諸島のドイツ権益を手に入れることであるのは明白で、開戦後数ヶ月で日本は青島と南洋のドイツ権益を占領してしまった。

 1917年2月にはドイツは無制限潜水艦戦を再開(1915年に一度やっている)する。無制限潜水艦戦とは潜水艦の攻撃対象を軍艦だけでなく、商船や中立国の船舶まで含めた無差別攻撃で国際法上も禁止されている行為であった。この無制限潜水艦戦が始まると、英国を始め連合国から日本に対して護衛作戦に参加するように再三要請が行われた。

 これに対して日本は戦争初期に手に入れたドイツ権益を日本が引き継ぐことを承認する秘密条約を結び(加藤P246)、1917年2月7日、第一特務艦隊をインド洋、第二特務艦隊を地中海、第三特務艦隊をオーストラリア、ニュージーランド方面に派遣した。第一特務艦隊は小栗孝三郎少将を司令官とする艦隊で、軽巡洋艦矢矧、対馬、新高、須磨の4隻に第二駆逐隊で編成、第三特務艦隊は山路一善少将を司令官とする巡洋艦平戸、筑摩の2隻で編成されていた。

 

第二特務艦隊

02_樺型駆逐艦
(樺型駆逐艦 画像はwikipediaより転載)

 

 これらの艦隊の中で、いわば「最前線」にあたる地中海を担当するのが、第二特務艦隊で、司令官佐藤皐造少将、旗艦明石を筆頭に、第十駆逐隊(楓、桂、梅、楠)、第十一駆逐隊(榊、柏、松、杉)の9隻で編成されいた。4月13日にマルタに到着した第二特務艦隊は英海軍から駆逐艦2隻、トローラー2隻の貸与を受けて護衛作戦を開始するものの、最初、日本海軍は対潜水艦戦闘とおいうものを全く知らず、爆雷投下装置すら装備していなかった。現地に到着した艦隊では、急いで英海軍に対潜水艦戦闘の教授を受け、爆雷投射機を装備して出撃していった。

 このような状況が原因だったのかは分からないが、5月4日には駆逐艦松、榊が護衛中の兵員輸送船トランシルヴァニア号が潜水艦による雷撃の被害にあって撃沈されてしまう。第二特務艦隊は、護衛任務を達成することは出来なかったもののトランシルヴァニア号乗組員の救助に尽力、英国王から第十一駆逐隊の司令以下20名に勲章が授与されたものの、6月11日には、トランシルヴァニア号乗組員救出に活躍した駆逐艦榊が雷撃を受け大破、艦長以下乗員59名戦死、重軽傷16名の被害を出してしまった。

 この駆逐艦榊の大破について少し詳しく書いてみよう。1917年6月11日、駆逐艦榊と松は護衛任務を終えマルタ島に帰投中、敵潜水艦と遭遇、戦闘が開始された。榊と松が単黄陣をとり(並行して走る状態)、18ノットで航行中に敵潜望鏡を発見、砲撃をすると同時に敵潜の魚雷が左舷前部に命中爆発した。どうもこの「敵潜水艦」とはオーストリアの潜水艦であったようだ。因みにこの件で、船団を護るために榊が盾になったという美談があるようだが、榊は護衛任務を終えて帰投中であり事実無根のようだ(高岡)。

 

巡洋艦出雲がきたよ

03_出雲
(巡洋艦出雲 画像はwikipediaより転載)

 

 8月10日には巡洋艦出雲と第十五駆逐隊(桃、樫、檜、柳)が来着したことにより戦力が大幅に向上、8月13日には明石に代わり出雲が艦隊旗艦となる。これによって明石は8月23日に日本に帰港するためにマルタ島を出発、11月4日に呉で役務解除を受けている。明石が日本に戻ったものの、出雲以下、第十駆逐隊、第十一駆逐隊、第十五駆逐隊の合計17隻(英国貸与の艦船4隻)という規模になった。

 かなりの規模となった第二特務艦隊を率いる佐藤少将は、8月下旬に英国で行われた船団護送会議において護衛対象艦船中、最重要にランクする軍隊輸送船を第二特務艦隊が護衛することを申し出ている。当初は対潜水艦戦闘を知らなかった第二特務艦隊も経験を重ねるうちに船団護衛の方法が洗練されていった。当初は一隻ずつを護衛していたが護衛艦の数が足りなくなると船団を編成して護衛に当たるようになった。船団の形も「▽」の形状に編成し、万が一先頭船が雷撃された際にも後続船にその魚雷が命中しないように工夫された。

 

 

そして任務完了

04_マルタ島の墓
(マルタ島の第二特務艦隊戦没者の墓 画像はwikipediaより転載)

 

 さらに1918年11月16日には巡洋艦日進が第二特務艦隊に編入、11月26日より1919年1月6日まで艦隊旗艦となっている。これら第二特務艦隊は、地中海の厳しい環境の中任務を行い、第一次世界大戦終結に伴い、任務を終えた巡洋艦日進と第二十二駆逐隊(旧第十駆逐隊)、第二十三駆逐隊(旧第十一駆逐隊)は1919年6月18日に、巡洋艦出雲と第二十四駆逐隊(旧第十五駆逐隊)は7月2日に無事横須賀に寄港しした。

 1917年4月から始まった地中海派遣第二特務艦隊は、作戦終了までの間、護衛した艦船は788隻、人数にして75万人、護衛回数が348回でその間の対潜水艦戦闘は36回に及んだ。

 

その後

 第一次世界大戦が終結すると、日本は山東半島や南洋諸島のドイツ権益を継承した。山東半島のドイツ権益の継承に関しては米国が強硬に反対したため結論は1922年のワシントン会議に持ち越されたものの、日本はサイパン島、トラック諸島、マーシャル諸島などの南洋諸島を委任統治領として経営・開発することが可能となった。ハワイ、ウェーク島、グアム島、フィリピンを結ぶ米国のラインに対してサイパン、トラック諸島、マーシャル諸島を日本が掌握したことで太平洋の緊張関係は高まっていく。

 南洋諸島を統治下におくことが出来た日本であったが、山東半島問題で米国と中国の反日感情は高まり、南洋諸島を統治することで地理的にも警戒されることとなった。地中海派遣艦隊の功績により日本は南洋諸島を統治することができるようになったが、同時にこれが原因の一つとなり日米対立が激しくなっていった。

 日本は、自国の権益を拡大するために第一次世界大戦に参戦、英国から護衛艦隊派遣を要請されると戦争初期に日本が獲得した旧ドイツ権益を日本が継承することを条件に地中海への第二特務艦隊の派遣する。艦隊の派遣は国際間の駆け引きの結果であり、そこに善意というものは存在しない。あるのは国家間の利害関係だけである。逆に自国民に多くの犠牲者が出る可能性のある決断を善意で行うことはありえない。この第二特務艦隊派遣の経緯からドライな国際関係が垣間見れるのである。

 

参考文献

  1. 加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』
  2. 高岡裕之「『新しい歴史教科書』が撃沈した日本駆逐艦』『歴史家が読む「つくる会」教科書』
  3. 雨倉孝之『海軍フリート物語』黎明編

 

サイト内リンク

 

 


ミリタリーランキング

01_零戦32型
(零戦32型 画像はwikipediaより転載)

 

零式艦上戦闘機

 

 零式艦上戦闘機とは1937年に開発開始、1940年に制式採用された日本海軍の艦上戦闘機である。日中戦争で実戦に投入されたがあまりに高性能であったために後継機の開発が遅れ、結局、太平洋戦争末期まで使用されることになってしまった。防弾装備や強度に問題もあったが、傑作機であることには間違いない。総生産数は10,000機以上であるため、多くのバリエーションがある。

 

 

32型

 

 

栄21型エンジンを使ってみる

 1941年、零戦に搭載されている栄12型エンジンのパワーアップ版である栄21型エンジンが開発された。この栄21型エンジンは栄12型エンジンが940馬力だったのに対して1130馬力と大幅に馬力がアップ、さらに二速過給器を装備したエンジンであった。1941年6月、この栄21型エンジンの完成を受け、このエンジンを搭載する零戦、A6M3の設計が開始されることになった。しかし大変残念なことに、この設計をする頃にはちょうど堀越技師は病気になってしまったため、この零戦32型は一式陸攻の設計でお馴染みの本庄季郎技師によって設計された。

 栄12型に対して栄21型は外径こそ変わらなかったものの、全長が約16cm、重量が60kg増加したために機体の重量バランスを変更することが必要となった。このため防火壁を185mm後退、胴体も21型よりも短く設計し直されたが、エンジンの全長が長くなり、胴体が短くなったので結局、機体の全長は21型と変わらなくなっている。見た目は同じでもエンジンの交換は意外と大変なのだ。

 21型との外見上の最大の違いは翼端で21型の両翼端をそれぞれ50cmずつ切落している。のちに登場する52型のように丸く綺麗に整形することもなく、ぶった切ったような角形になっている。素人からすると「50cmくらいなんじゃーい!」と思うかもしれないが、零戦はねじり下げ翼という主翼の角度が翼端に行くほど少しずつ変化していくという微妙な構造になっているので、空気の流れ等が変わってしまい大変なのだ。

 しかしそこは名設計者本庄技師!うまく修正した結果、旋回性能は下がったものの、横の操縦性が改善、速度が若干向上する上に補助翼の利きも良くなり急降下制限速度も40km/h近く増大、おまけに生産性まで向上するといういいこと尽くめの結果が出た。しかし病気から戻った零戦の生みの親堀越技師。やっと病気が治ったと思ったら、目の前にあるのは翼端をぶった切られて変わり果てた零戦。。。かなりムカついたようだ(本庄P63)。

 

燃料入れる場所が減っちゃった(*´∀`*)エヘ!

02_零戦32型
(零戦32型 画像はwikipediaより転載)

 

 この設計変更をしたため、胴体燃料タンクの収納スペースが減少、そもそも21型では145L入る胴体燃料タンクが32型では何と60Lに減ってしまった。代わりに翼内燃料タンクの容量を190から210Lに増やしたものの、合計搭載量は21型525Lに対して32型は480Lと45Lも少なくなってしまった。

 武装は、九七式7.7mm機銃2丁、九九式一号銃二型2丁で装弾数は各100発で、大型のドラム弾倉を使用するため翼から少し弾倉が出てしまっている。エンジンがパワーアップしたため最高速度は21型の533km/hに対して544km/hと11km/h向上したものの航続距離は、21型の全力30分+2,530kmに対して、32型は全力30分+2134kmに減少してしまった。このため生産中に設計変更を行い後期型からは翼内燃料タンクを210Lから220Lに変更している。この翼内燃料タンクが増量された32型は後期生産型152機で、試作機含め191機は210L燃料タンクモデルである。

 開発計画開始からわずか1ヶ月後の1941年7月14日には初飛行、零式二号艦上戦闘機として制式採用された。生産したのは三菱のみで、1942年6月から始まり、12月まで生産が続けられた。総生産数は試作機3機と量産機340機の合計343機である。

 戦列に加わったのは1942年6月以降で以降、各部隊に配備されたが、米軍は当初、零戦とは別の機体と認識していたようで、零戦のコードネームZEKEに対して32型はHAMPと別のコードネームが与えられている。この速度と上昇力が向上した代わりに旋回性能が犠牲になっている32型の評価は分かれていたがそれまで21型の旋回性能に慣れていた搭乗員にはあまり評判は良くなかったようだが、逆に海兵69期出身の梅村武士氏のように一番好きだったという評価もある(梅村P86)。この32型の実戦配備は1942年7月、台南空に配備されたのが最初だったようだ(松崎P50)。

 

 

22型

 

やっぱ翼戻すし燃料タンクも増設したれー!

03_零戦22型
(零戦22型 画像はwikipediaより転載)

 

 しかし空戦性能はともかく、32型の最大の問題は航続距離が短くなってしまったということだった。特に米軍がガダルカナル島上陸した8月以降、海軍航空隊が長距離を飛行してガダルカナル島に攻撃をかけるようになってからは、32型の航続距離は問題視されるようになった。このため翼幅を再び50cm延長して40L翼内燃料タンクを左右に増設した22型が開発された。これによって燃料搭載量は580Lとこれまでの零戦中最大となり、航続距離も全力30分+2,560kmと21型も超えるものとなった。

 速度は32型の544km/hに比べ541km/hと若干低下したものの、21型よりも8km/hほど速く、航続距離もこれまでの零戦中最長、旋回性能も良いことから32型の不評は解消したようである。操縦練習生28期のベテラン搭乗員であった羽切松雄元中尉に至ってはこの22型が一番好きであったとまで言っている(神立P78)。この22型は1942年秋に一号機が完成、1943年1月29日に制式採用された。生産は制式採用に先立った1942年12月に開始されており、1943年7月まで行われた。この22型は、1943年5月、再編成のために日本本土に帰還した台南空(251空)がラバウルに再進出する際に装備していたそうだ(大島P463)。総生産数は560機であった。

 

武装強化型

 この零戦32・22型が開発、生産されているちょうどその時期、零戦試作機から搭載されていた20mm機銃の改良型九九式二号機銃が制式採用された。この二号銃は一号銃の銃身を延長して初速と命中精度を高めたもので二号銃三型は、1942年7月22日に制式採用されている。この二号銃三型を搭載した22型は22型甲と呼称されている。さらに少数ではあるが、32型にも同機銃を装備した機体もあり、こちらは32型甲と呼称されていたという。

 

〇〇型という呼称

04_零戦22型
(零戦22型 画像はwikipediaより転載)

 

 今回の記事を読んでいて不思議に思った方はいないだろうか。零戦21型の次のモデルの名称が32型、その次が22型と、つまり「順番逆じゃね?」ということだ。どうしてこの順番通りに行かない変な名称になってしまうのか簡単に説明してみよう。

 零戦に限らず、海軍の航空機には全て零戦11型、21型、32型、22型というように二桁の番号で機体のバージョンを表している。ご存知の方も多いかもしれないが、この規則についてちょっと書いてみたい。この二桁の番号は機体とエンジンのバージョンを表し、下一桁がエンジン、二桁が機体のバージョンを表している。例えば、新型機ができると機体もエンジンも初期モデルなのでどちらも「1」なので11型となる。

 そして数年後、例えば零戦11型の翼端を50cm折り畳めるようにしたとする。すると機体はバージョンが変わったので二桁目は「2」となる。しかし、エンジンは変更されていないので下一桁は1のまま、つまり21型となるのだ。そしてこの21型の機体もエンジンも変更したのが32型で、機体は「2」から「3」へ変更、それまで「1」だったエンジンも「2」に変更され32型となったのだ。

 そしてその32型も作ってはみたものの翼の形状はやはり元のままが良いということで翼の形状を戻したため32型が22型となってしまった。このような流れで11型→21型→32型→22型という順番になってしまったのだ。

 

22型って翼内タンク増設されてね?

05_九九式機銃
(上が九九式一号機銃 下が二号機銃 画像はwikipediaより転載)

 

 しかしこの変更、厳密には外見上は同じでも21型にはなかった翼内燃料タンクを増設しているので完全に以前の型に戻った訳ではない。32型の機体をさらに変更して燃料タンクを増設、翼の形状も変更しているので、本来なら42型と言ってもいいかもしれない。どうして22型となったのかの理由は不明であるが、「42は「死に番」だし、外見上は21型と同じだし、まあ、いいんじゃね?」というくらいのものだったのだろうか。

 それと武装によってもまた名称が変わる。武装が初期から変更されると、今度は名称の最後に「甲乙丙丁・・・」という十干が付くようになる。今回の記事だと、22型の機銃が九九式一号銃二型から九九式二号銃三型に変更された機体は22型甲となるのだ。これを知っていて社会で役に立つことは一切無いが覚えておくと良いだろう。

 

参考文献

  1. 秋本実『日本軍用機航空戦全史05』
  2. 本庄季郎「中攻・零戦と零観」『海鷲の航跡』
  3. 梅村武士「わが愛しき駿馬”三二型”防空戦交友録」『「空の少年兵」最後の雷撃隊』
  4. 松崎敏彦「私が開発した「栄」エンジンの秘密」伝承零戦2
  5. 神立尚紀『ゼロファイター列伝』
  6. 大島基邦「”ラバウル整備隊”徹宵日誌」伝承零戦2

 

 


ミリタリーランキング

01_彩雲
(画像は彩雲 wikipediaより転載)

 

「じゃない」人達の戦い

 

偵察員とは

 偵察員とは、斥候として敵地奥深くに潜入して敵情を掴んで帰ってくるという斥候兵。。。ではなく、海軍航空機搭乗員の区分の一つである。海軍の航空機搭乗員には操縦と偵察という二種類があって操縦とは当然、機体の操縦を担当する人、要するに操縦員。そして偵察とは搭乗員でありながら、誰もが憧れる航空機操縦員「じゃない」搭乗員のことをさすのだ。

 

やはりみんな操縦員になりたい?

02_零観
(画像は零観 wikipediaより転載)

 

 日本海軍の航空機には、大きく、戦闘機、艦上攻撃機、艦上爆撃機、艦上・陸上偵察機、陸上攻撃機、水上偵察機等々、多彩な航空機があるが、この中で戦闘機以外の航空機はほとんどの場合2人以上が登場している。2人の内、1人はもちろん操縦員だ。では、操縦員「じゃない」人達は一体何をしているのだろうか。この記事では、これら花形でない裏方搭乗員についてチャラっと書いてみたいと思う。

 上記の機種の内、まずは二人乗りの艦上爆撃機と艦上偵察機・陸上偵察機について考えてみよう。二人乗りの場合、基本どちらかが操縦員だ。どちらも操縦員でない場合何らかのトラブルが発生していると思っていい。そこで、二人乗りの場合、一人が操縦員だとするともう一人は海軍では偵察員と呼ばれている。この偵察員の仕事は基本的に「航法」である。

 「航法」とは何かというと、これはGPSなどという便利なものが無かった当時、船乗りがコンパス片手に大海原を進んだように航空機も目的地に着くには自分の機位を測定して目的地までの方向を示さなければならない。これが航法だ。偵察員の主な任務はこの航法を行うことであったのだ。まあ、普通に考えれば分かるだろうが、この偵察員という仕事、相当に地味な仕事である。大空を飛翔することを夢見て難関の搭乗員養成コースを突破した挙句、「はい、お前偵察員ね」ではたまらない。乙種予科練9期で偵察員に振り分けられた藤代氏はトイレの中でガチで泣いたそうだ(藤代P60)。

 

泣く理由も分かるさ。。。

03_予科練
(画像は予科練生 wikipediaより転載)

 

 「いやいや、その程度で泣くなよ〜」と思うあなたに当時の海軍で航空機搭乗員になる方法を説明しよう。まず、海軍兵学校を出て士官として航空機搭乗員になること、そして予科練、さらには操縦・偵察練習生というものがある。まず海軍兵学校、予科練であるが、これは全国のトップクラスの中学生が受験した挙句の競争率が数十倍の超難関。そして現役の海軍兵が志願する操縦・偵察練習生にしても競争率は同程度の凄まじいものであった。つまり、どのコースを選ぶにしても航空兵になるのは相当な狭き門であったのだ。

 その狭き門を自由自在に大空を飛び回ることを夢見て猛勉強して突破。その挙句に誰かに操縦してもらって後ろで機体の位置を何だか分かんない機材で測定してる偵察員に振り分けられては、前述の藤代氏の気持ちも分からないではない。そもそも機体の位置の測定なんて要するに座学なのだ。「何なら俺にも出来んじゃねぇ?ふふん!」と思ったあなた。そんなに簡単なものではないのだ。

 

三種類の航法

04_六分儀
(画像は六分儀 wikipediaより転載)

 

 航法には基本的に地文航法、天測航法、推測航法という3種類の航法がある。地文航法とは名前の通り、地上の地形を目印に飛ぶ航法で陸地上空を飛ぶ陸軍機は主にこの航法を使用した。そして天測航法。これは六分儀という特殊な機器を使用して天体と水平線の角度を計算、現在位置を割り出すというものだ。しかしこれは星が出ていないと使えないので主に大型機の偵察員が行っていたという。そして最も難解なのは推測航法である。

 この推測航法とは要するにデータのみで現在地を測定するという方法である。地上からは分からないかもしれないが、航空機というのは絶えず風に流されている。その風に逆らって目的の方向に進んでいくのだ。風は正面からも吹くし、横からも斜めからも吹く。そのたびに機体は少しずつ位置がずれていく。偵察員はその風の方向と風速を計算しながら機体を目的地に誘導するのだ。仮にこの計算を間違えると目標物の無い洋上、そのまま海中にドッボーン!である。

 

偵察員とはスペシャリストなのだ!

05_零式水偵
(画像は零式水偵 wikipediaより転載)

 

 これらからも分かるように偵察員というのは、相当高度な知識と経験が必要であり、一朝一夕に出来上がるものではない。前述のトイレで号泣した藤代氏は300海里で誤差1海里程度であったという。これはkmに直すと555.6kmを飛行してその誤差が僅か2km弱であったということだ。555.6kmとは東京、青森間に匹敵する距離だ。これを何の目標物のない洋上を方位と風向、風速のみで飛行するというのはどれだけ困難なのか分かるというものだ。さらに偵察員はモールス信号等にも精通していなければならない。

 さらに急降下爆撃機の偵察員ともなると、敵艦めがけて急降下している最中にもその角度と速度を冷静に計算して操縦員に伝える。この情報に誤差があると当然爆弾は命中しない。45°や60°位の角度で急降下している機内で角度と風向、風速等を計算するというのは頭脳と共に相当な冷静さも必要だろう(山川P46)。敵機に追尾されながらも敵機の銃口の方向を操縦員に伝え射撃の瞬間に操縦員に機体を「滑らせる」方向を指示、低速の水偵でありながらF6Fヘルキャットの追撃を振り切った凄腕偵察員もいる(本間P187)さらに艦上・陸上攻撃機ともなると偵察員が爆撃手でもあるのでこれらの爆撃手兼偵察員は爆撃技術も必要であった。

 

 

プロ偵察員

06_二式艦偵
(画像は二式艦偵 wikipediaより転載)

 

 この偵察員の中でも「ザ・偵察員」とも呼べるのが田中三也氏である。著者は生粋の偵察員と言って良いだろう。高度な航法技術と共に特修科偵察術練習生を修了、偵察員としてのエリート教育を受けた隊員である。この特修科偵察術練習生とは海軍の技術教育の三段階、普通科、高等科、特修科の最上位に位置する課程で、本来は偵察術課程というのは存在しなかったが、ミッドウェー海戦での偵察の重要性から新たに設置された課程であった。この課程は二期のみで終了となったため田中氏は数少ない卒業者といえる。

 この課程に選ばれたのは実戦経験豊富なベテランばかりで、これら優秀な実戦経験者をさらに鍛えて戦力を向上させようという海軍の方針であった。田中氏も南太平洋海戦で米機動部隊を最初に発見したという殊勲者であった。この課程でさらに技術を学んだ田中氏は、偵察においても敵戦闘機の網を突破するために高高度で侵入して目標上空で急降下、写真撮影をしてそのまま飛び去ってしまうという荒業をやってのけたり、同士討ちを避ける敵の心理を利用して敵艦隊の真ん中を低空で飛行して切り抜ける等、強烈である。戦争後半には傑作偵察機彩雲を駆って偵察任務に活躍している。とにかくスゲーのだ。

 

 

参考文献

  1. 藤代護『海軍下駄ばき空戦記』光人社NF文庫2001年
  2. 山川新作『空母艦爆隊 艦爆搭乗員死闘の記録』光人社NF文庫1994年
  3. 本間猛『予科練の空』光人社NF文庫2002年
  4. 田中三也『彩雲のかなたへ』光人社NF文庫2016年

 

 


ミリタリーランキング

01_零戦11型
(画像は零戦11型 wikipediaより転載)

 

はじめに

 

 零戦と言っても一種類ではない。実はバリエーションは山ほどあるのだ。今回はその内でも一番最初のバージョン、零戦21型。。。と思われがちであるが、一番最初の型は零戦11型、さらに試作機はまた違う仕様になっている。実は零戦の経歴は結構複雑なのだ。これを分かりやすく書いたのかどうかは分からないが一応まとめてみたのがこの記事だ。お読み下され。

 

九六式艦戦を上回る万能戦闘機を作れぃ!型

 

無茶な性能要求

02_九六式艦戦
(画像は九六式艦戦 wikipediaより転載)

 

 零戦とは日中戦争から太平洋戦争まで活躍した日本海軍の艦上戦闘機である。制式名称は零式艦上戦闘機で通称零戦、「レイセン」「ゼロセン」と呼ばれている。言うまでもなく、この零戦は超有名戦闘機でもはや説明する必要すらないと思えるが、実は、零戦というのはものすごーいバリエーション展開されているのだ。今回はそのバリエーションの最初期のモデル、零戦11型、21型について書いてみたい。

 1937年5月19日、海軍は、三菱、中島の2社に次期艦上戦闘機の開発開発を命じた。この次期艦上戦闘機は、開発を命じた年である昭和十二年から「十二試艦戦」という名称で呼ばれることとなった。つまりは昭和十二年試作艦上戦闘機、略して十二試艦戦である。しかし、この性能要求が何とも凄いものだった。この当時、海軍には傑作機と評判の高い九六式艦戦が主力艦上戦闘機として配備されていた。この九六式艦戦は速度、空戦性能はバツグンに良いものの、航続距離が短く、長距離を飛ぶ爆撃機の護衛が出来なかった。

 この問題に対処するために日本海軍は戦闘機にも長大な航続距離を求めた。まあ、それだけならいい。しかし日本海軍が求めたのはそれだけでなく、速度は欧米の新鋭機並の500km/h以上、格闘性能は九六式艦戦並、武装は20mm機銃2門に上昇性能も大幅に向上させたものだった。要するに「全部乗せ」なのだ。もちろん、それが出来るなら問題はないが、世の中そんなに都合良くはいかない。高速になれば格闘性能は落ちるし、格闘性能を上げれば速度は落ちる。こんなの当たり前ではないか。そもそも、当時の日本はエンジンの開発では先進国の後塵を拝していた。エンジンが十分でないのにそんな「全部乗せ戦闘機」が出来るはずがない。

 

無茶な性能要求が実現してしまった

03_ボク達が作りました!
(ボク達が作りました! 画像はwikipediaより転載)

 

 海軍が十二試艦戦の設計を命じたのは三菱、中島の2社であったが、あまりにご無体な性能要求に試作を断念。三菱のみが設計をすることとなった。三菱は九六式艦戦を作り出した堀越二郎を設計主務者として設計を開始、海軍の横暴、無茶な要求にも屈せずに1939年3月16日、ついに十二試艦戦試作1号機を完成させる。この試作機、性能は結構良かった。

 航続距離、速度ともに十分で格闘性能もまあまあ満足できるレベルであった。設計において最重要であるエンジンの選定であるが、三菱製金星40型エンジン、瑞星13型エンジンの2基が候補に挙がった。金星エンジンは大型ではあるが1,000馬力の強力エンジン、瑞星は小型ではあるが780馬力と非力だった。そして設計チームは、これら2基のエンジンを比較した結果、非力ではあるが小型という瑞星を選んだ。

 初飛行は1939年4月1日、当時はエイプリルフールがあったのかどうかは知らないが、十二試艦戦は嘘ではなく本当に飛んだ。その後も試験飛行を続けている内に、4月17日、当初2翅3.1mの二段階可変ピッチプロペラ(プロペラの翅が2枚)から2.9m3翅の恒速ハミルトンプロペラに変更されている。さらに10月25日には2号機が完成、どちらも海軍に領収されている。

 この十二試艦戦は、この名称とは別にA6M1という略符号が便宜上付されている。この略符号、何となく聞いたことがあるかもしれないが、これが何を意味するのか少し書いてみたい。まず最初のA、これは艦上戦闘機の意味で、Bは艦上攻撃機、Cは艦上、陸上偵察機、Dは艦上爆撃機というように機種を表している。そして次の6、これは海軍の6回目の計画であることを表している。そしてMは製造メーカーを意味する。Mというのは三菱の意味だ。そして最後の1というのは改造型である。

 つまりはA6M1というのは海軍が計画した艦上戦闘機(A)の6回目であり(6)、それを三菱重工が製作(M)した最初の型(1)であるということだ。因みにそれより前の九六式艦戦の略符号はA5M1、その前の九五式艦戦はA4Nとなっている。Nは中島飛行機の略称だ。零戦は試作機がA6M1、11型がA6M2となっており、21型が出来ると11型がA6M2a、21型がA6M2bと変更された。

 

エンジン変更

04_栄エンジン
(画像は栄エンジン wikipediaより転載)

 

 そんなこんなで十二試艦戦を製作している間、中島飛行機で栄エンジンが開発される。このエンジンは瑞星と同じ14気筒二重星型エンジンであるが、瑞星よりも重量は4kgほど重いものの若干小型で出力は瑞星の780馬力に対して940馬力と20%も上がっている。あまりにも素晴らしいエンジンであったために十二試艦戦は試作3号機からこの栄エンジンを採用している。そして1940年7月21日、この栄エンジン搭載の十二試艦戦は、あまりの航続距離と高性能ゆえに制式採用前に実戦部隊に配備され、その後24日に「零式一号艦上戦闘機一型」として制式採用されている。

 この零戦一号艦上戦闘機一型という名称は1942年に11型に改称される。この零戦11型はあくまでも艦上戦闘機。なのでこの11型を艦上戦闘機として空母に搭載してみたところ、エレベーターに乗せるには翼端がもう少し短い方がいい。ということで両翼端を50cmずつカット、さらに艦上戦闘機として洋上で空母からはぐれてしまった時に帰投するための装置であるクルシー帰投方位測定装置と着艦には必須の着艦フックが装着されたのが21型で、1940年12月4日に零式一号艦上戦闘機二型として制式採用されている。

 以降、これら零戦は日中戦争から太平洋戦争全般において使用され続けていくことになる。総生産数は試作機が2機、11型が64機、21型が三菱製740機、中島製2,628機である。三菱は1942年6月に21型の生産を終了しているが、中島飛行機は何と1944年2月まで21型の生産をしている。しかしこの中島製零戦、実は搭乗員には評判が良くなかった。どうも工作が雑だったようだ。原因は分からないが、当時、戦闘機搭乗員であった坂井三郎氏は、急速に勃興してきた中島飛行機と三菱重工との工員の練度の差があったのではないかと書いている(∈箘P177)

 

各型の違い

05_零戦21型
(画像は零戦21型 wikipediaより転載)

 

 これら零戦3種類(試作、11型、21型)、どこらへんが違うのかを簡単に説明したい。試作機と11型であるが、この2機の一番の違いはエンジンである。前述のように試作機には瑞星13型エンジン、11型には栄12型エンジンとエンジンが全く違う。馬力も全く違くなったため最高速度も533km/hに向上した。もう一つ試作機と11型の大きな違いが胴体で11型は胴体が26cmほど延長さえれている。他にも垂直尾翼、水平尾翼、カウリングの位置や形状が変更されている。さらに11型は混合比計やトウ(竹冠に甬)温計が装備されていた。このトウ温計とはエンジンシリンダーの温度を測定する装置で初期型には付いていたが、いつのまにか装備されなくなってしまたようだ(岩井P64)。

 11型と21型の違いは21型が両翼端が50cm折り畳めるようになったことが大きな違いで、他にはクルシー帰投方位測定装置が装備されたこと、着艦フックが装備されたことなどである。機銃はどの型も7.7mm機銃と九九式一号銃二型で口径20mm、装弾数60発のドラムマガジンであった。この九九式一号銃二型というのは、スイス、エリコン社製の機関銃を日本がライセンス生産したもので、一号銃一型はオリジナル、二型は日本製である。

 

11型、21型の活躍

 この零戦、最初から傑作機であったのかといえばそうではなく、初期の零戦は、一定の高度になるとエンジンが止まったり、プロペラの先からオイルが漏れて風防が見えなくなってしまったり、エンジンシリンダーの温度が異常に高温になってしまったり、急降下するとフラッターという振動が起る上に主翼の表面に皺が寄ってしまう、傑作機どころかどれか一つをとっても航空機としては致命的ではないかという問題を抱えていた(神立P27)。

 実際、2機製作された試作機の内1機は1940年3月11日、テスト飛行中に空中分解している。これらの問題は犠牲を出しつつもテストパイロット等によりおおよそは克服されている。制式採用された11型は1940年7月21日に中国戦線で実戦配備されて以降、主に日中戦争で活躍、21型は太平洋戦争後期まで第一線で使用され続けていた。前述の坂井氏はこの21型こそが最高の零戦だと語っているが(∈箘P162)、同じく日中戦争を除いてはほぼ零戦のみに搭乗し続けた戦闘機搭乗員の岩本徹三中尉は21型でラバウルに進出する際に「死にに行くようなものかもしれない」とこぼしている(岩本P120)。

まとめ

 

 零戦11型は艦上戦闘機ではあるが、陸上戦闘機的な空気感が醸し出されているが、21型は純粋な艦上戦闘機である。零戦全型中、最も格闘戦能力に優れており、かつての戦闘機パイロットの中にはこの零戦21型が最高の機体であるという人すら存在する。しかしやはり戦争中盤で登場した零戦52型は最高速度が21型よりも30km/h近く上がっており、いくら格闘戦に強いといってもやはり戦争中盤以降は21型では難しかったのではないかと思う今日この頃。

 

参考文献

  1. 秋本実『日本軍用機航空戦全史05』
  2. 〆箘羯囲此慘軅錣凌深臓
  3. 岩井勉『空母零戦隊』
  4. 神立尚紀『ゼロファイター列伝』
  5. ∈箘羯囲此慘軅錣留震拭拆
  6. 岩本徹三『零戦撃墜王』

 

 


ミリタリーランキング

岩本徹三01
(画像はwikipediaより転載)

 

はじめに

 

 岩本徹三とは、日本海軍航空隊の搭乗員であり、日中戦争から太平洋戦争までほぼ第一線で戦い抜いた搭乗員である。1916年に樺太で生まれ、1934年17歳で呉海兵団に入団。その後航空機搭乗員として日中戦争、太平洋戦争で活躍する。大言壮語型の人間で腕は超一流、下級士官でありながら特攻反対を公言するなど勇気のある発言をしている。日中戦争から太平洋戦争をほぼ第一線で戦い抜き終戦を迎えた。総撃墜数は216機と自称しているというが、実際は80機ともいう。撃墜数は不明であるが超一流の搭乗員であることは間違いない。

 

岩本徹三の経歴

 

 

日中戦争

02_九六式艦戦
(画像は九六式艦戦 wikipediaより転載)

 

 1916年6月14日、岩本徹三は樺太に生まれる。警察官であった父の転勤で、岩本一家は北海道札幌に転居、しばらくして島根県益田と転居する。1934年6月1日、岩本は親に無断で海軍の入団試験を受験、見事合格して呉海兵団に四等航空兵として入団する。1935年第31期普通科整備術練習生として霞ヶ浦航空隊に入隊。空母龍驤の艦上整備員を経て、1936年4月28日、第34期操縦練習生として霞ヶ浦空に入隊。同年12月26日、第34期操縦練習生終了後、一等航空兵として佐伯空に配属。1937年7月大村空に配属され、1938年2月2日、中国に展開する第13航空隊(第12航空隊とも)に配属された。

 岩本の回顧録は、ここからスタートしている。同時期に同じ部隊に所属していた同年兵の田中國義少尉は後年、インタビューでその当時の搭乗員のレベルの高さを「あのころはすごいパイロットがそろってました 〜中略〜 あとから来た岩本徹三なんて食卓番ですよ。」と語っている。(神立P86)。実際、回顧録でも一番下っ端の岩本は、食卓番として奮闘して、主計科に「ギンバイ」をしに行ったこと等が書いてある。当時岩本は、一等兵であったが、他の部隊の下っ端は三等兵であったので岩本は優先的に「獲物」をもらうことが出来たようだ(岩本P36)。

 因みに「ギンバイ」とは海軍の言葉で、食糧を主計科から貰ってくることをいう。もちろん違反であるが、そこはある程度大目に見られていたようだ。岩本は食卓番も「商売繁盛の料理屋のコック」等と前向きに楽しんでいたようである。後に零戦虎徹を自称する岩本はこの日に4機撃墜、1機不確実の初戦果を申告している。

 1938年3月31日、第12航空隊に異動、そこでも戦果を重ねた後、1938年9月14日、佐伯航空隊付を命じられ内地に帰還するまでに14機の撃墜を申告した。これは日中戦争における海軍航空隊での最多撃墜で、後に岩本はこの武勲によって功五級金鵄勲章を受けている。しかし、これには異論も多いようだ(神立P88)。因みにその他、日中戦争での海軍多撃墜搭乗員としては黒岩利雄、古賀清澄の13機撃墜、田中國義の12機撃墜等がいる。

 

 

母艦戦闘機隊へ

03_南太平洋海戦
(画像は翔鶴から発進する零戦 wikipediaより転載)

 

 内地に帰還した岩本は、1940年4月母艦搭乗員になるために空母龍驤で母艦訓練に参加、そして1941年4月には第1航空艦隊(一航艦)第3航空戦隊(三航戦)空母瑞鳳戦闘機隊に配属、さらに1941年9月1日、第5航空戦隊(五航戦)が編成されると、岩本達瑞鳳戦闘機隊員は五航戦に編入、10月4日、空母瑞鶴乗組となった。11月26日、空母瑞鶴を含む南雲機動部隊は択捉島単冠湾を出撃、12月8日、真珠湾攻撃を敢行した。岩本は真珠湾攻撃の攻撃隊には参加できず、母艦の直掩隊に回される。岩本は攻撃隊に参加できないことを残念がるものの、「艦隊上空での空戦も悪くない」と気持ちを切り替えている(岩本P59)。あくまでも前向きな性格だ。この時に直掩隊に回された搭乗員は後に活躍する原田要中尉、小町定飛曹長、岡部健二少尉等がいる。

 1942年に入ると五航艦は内南洋からラバウル攻略に参加、2月には内地に帰還した後、4月にはインド洋作戦、5月には珊瑚海海戦に艦隊直掩隊として参加している。8月には瑞鶴を降りて内地の大村空で教員配置となる。第一線に未練のあった岩本は、この教員配置を拒否したものの上官の岡嶋清熊大尉に説得され受諾。ここで3ヶ月教員配置に就いた後、11月2日、横須賀航空隊に異動、翌年2月上旬には追浜航空隊に異動している。

 

激戦のラバウルへ

04_ブイン基地
(画像はブイン基地 wikipediaより転載)

 

 1943年3月2日、新編の第281航空隊に配属、同年5月には幌筵島武蔵基地に進出、キスカ島に進出予定であったが、7月には日本軍はキスカ島から撤収。さらに冬季に入ったため10月25日には館山に移動したものの同月、281空派遣隊のラバウルに進出が決定する。11月10日、春田虎二郎中尉以下16名の281空搭乗員は、当時旧式化していた零戦21型に搭乗、一式陸攻の誘導により発進、14日には全員がラバウルに進出した。

 岩本達281空派遣隊は、11月14日付で201空に編入、12月15日には204空に異動している。この頃(回顧録では12日)から岩本はマラリアとデング熱の症状が発生、12月下旬から1944年1月13日までほぼ空戦に参加していないことから病気療養をしていたと推定されている(梅本P13,35)。1月に入ると204空がトラック島に後退したため253空へ異動、253空がトラックに後退する2月20日までラバウル航空戦に活躍した。実は、岩本がラバウル航空戦に参加したのはわずか3ヶ月強であったが、その間、連日のように出撃しており、世間の3ヶ月とは重さが違う。実際、回顧録には

 

「私たち搭乗員も一種の変人になってしまった。 〜中略〜 私たちの生活は無我無心、敵の来るたびに機械的に飛び上がり、去れば降りて来る。ただそれを繰り返すだけである。も早娯楽を求める気持ちもない。同僚の死もさして気にならない。ただ頭にあるのは自分はいつ死ぬかということだけである。腹の底から笑うことなどはない。
(岩本P160)

 

 とあるように精神的にも相当過酷な状態であった。

 1944年2月、253空はトラック島に後退する。岩本も「搭乗員の墓場」と言われたラバウルから奇跡的に生還することが出来た。1943年11月中旬から僅か3ヶ月であったが、前述の岩本の手記にもあるように「一種の変人」になってしまうほどの命がけの3ヶ月であった。岩本はこの間の自身の撃墜数を142機としている。

 

 

中部太平洋から比島へ

05_神風特別攻撃隊
(画像は出撃する特攻隊 wikipediaより転載)

 

 1944年2月にトラック島に後退した後もトラック島防空戦に活躍、6月14日には機材受領のために内地に帰還する。機材受領後にトラック島に戻る予定であったが、サイパン島の戦いが始まり、空路が遮断されてしまったためトラック島復帰は中止となった。その後、8月には呉防空を担う332空に異動、若年搭乗員、特に少尉クラスの指導を任された。ここで岩本は初めて局地戦闘機雷電に搭乗しているが、スピードは出るが重い飛行機で運動性は悪く、大型機相手なら良いが戦闘機相手では零戦以下、大したものではないと評している(岩本P251)。

 9月には252空戦闘316飛行隊に異動するが、戦闘316飛行隊の分隊長はラバウルで共に戦った春田大尉であった。ここでも岩本は若年搭乗員の錬成を担当するが、10月には台湾沖航空戦に参加するため台湾に移動する。移動先の台湾高雄基地では、突然現れた参謀に高雄基地の指揮下に入れと命令されるが「初めての爆撃で少し頭がおかしくなっているのだろう」と一刀両断したものの(岩本P259)、その後進出したフィリピンでも岩本に対して指揮権の無い現地の参謀に特攻機の空輸を命令される。岩本は断っているが、この時期は現地も相当混乱していたのであろう。

 

本土防空戦

06_零戦52型丙
(画像は零戦52型丙 wikipediaより転載)

 

 岩本は輸送機によりフィリピンから内地に帰還、11月には戦闘311飛行隊に異動する。1945年2月には米第58任務部隊によるジャンボリー作戦の迎撃戦に活躍した後、九州の国分基地に進出した。そして3月中旬に戦闘303飛行隊に異動、空母瑞鶴時代の隊長であった岡嶋清熊少佐の下で再び戦うこととなった。この戦闘303飛行隊とはかつてトップエースの一人と言われる西澤廣義も所属していた飛行隊でこの時点で海軍航空隊中、最も練度の高い搭乗員を集めた部隊であった。戦闘303飛行隊は数少ない練度の高い制空部隊として終戦まで特攻機の援護や撃激戦に活躍した。

 岩本も戦闘303飛行隊の一員として沖縄航空戦に参加、4月には沖縄特攻作戦に出撃した戦艦大和の救援に向かったが、到着した時にはすでに大和の姿はなかったという。4月下旬になると菊水四号作戦が発令、岩本も特攻機の援護に出撃したが、岩本小隊はF4Uコルセア戦闘機8機と不利な体勢から空戦に入り、岩本機は胴体、翼に数十発被弾した。幸い致命部をそれていたため墜落することはなかったが、機体の性能の違いと敵に有利な状態から空戦を仕掛けられてしまったことから岩本もついに体当たりを決意するもやぶれかぶれの戦法で危機を脱することができた。

 この時の被弾は相当なもので風防は飛び散り、計器盤はメチャメチャに壊れていた。幸いエンジンは回っていたため何とか基地に帰還することができた。帰還後、調べてみると被弾30数発、落下傘バントの金具に弾丸が一発命中しており、それがなかったら岩本自身に弾丸が命中していたかもしれない。この空戦の様子を見ていた味方機は岩本機が撃墜されて戦死したと判断、二階級特進の手続きをしていたという。この岩本の被弾は相当な衝撃だったようで、同じ部隊に所属していた土方敏夫、安倍正治も手記にこのことを書いている(土方P248、安倍P213)。

 そして6月には岩国基地で編成された天雷特別攻撃隊の教員配置、終戦を迎える。終戦から数日後は茫然としていたという。終戦から数日後、軍用自転車にウイスキーを一本を積んで故郷に帰った。終戦後は公職追放となり日本開拓公社に入社、北海道に行くが、体調を崩して島根に戻った。その後も畑仕事や養鶏、菓子問屋勤め等、職を転々とした後、1952年増田大和紡績工場に就職する。

 しかし一年後の1953年には盲腸炎を発症、誤診の結果、腹部手術を3回、さらに背中も4〜5回手術した上に、最後は脇の下を麻酔なしで手術、あばら骨を二本とるという大手術を受けた。そして病名もはっきりしないまま1955年5月20日、38歳の若さで他界した。

 

 

岩本徹三という男

 

07_零戦22型
(画像は零戦22型 wikipediaより転載)

 

【撃墜数】ホントに216機も落としたの?

 岩本徹三は、日中戦争、太平洋戦争を通してトップエースの一人と言われている。著書の最後に撃墜数と撃墜した機種が克明に記されており、それによると総撃墜数は、太平洋戦争で単独撃墜202機、協同撃墜、地上撃破まで含めると合計254機、さらに日中戦争で14機と凄まじい数字となっている。さすがにこれが実際の撃墜数である可能性は低く、戦史研究家の秦郁彦は岩本の撃墜数を80機前後と推定されている(秦P174)。そして前述のように日中戦争の14機撃墜という数字についても異論がある。

 空中戦での敵機の撃墜は非常に困難である。丙飛16期出身の今泉利光は「アメリカの戦闘機を50機も60機も墜としたかのような話が伝わっているのであれば、それは誰かがつくった「戦後の嘘」である。なぜなら、速度と機銃そして機数の関係からして物理的に不可能だからである」と断言している(久山P132)。さらに戦史研究家の梅本弘の研究でも明らかなように、空戦での撃墜判定はかなり誤認が多く、何十機も撃墜戦果を報告していたが実際には1機も撃墜出来てなかったというようなこともある。著名な搭乗員である坂井三郎もまた「空戦の戦果なんて、まぁほとんど誤認です」と語っているように(梅本P4)、ラバウル航空戦に関しても日米共に撃墜の誤認は多い。特に彼我の損害を比較すると日本側の誤認戦果が多い上に岩本の253空時代の戦闘行動調書に記載されている撃墜数が21機であるということから考えると、岩本主張するほど実際には撃墜してはいないのではないだろうか。

 無論、岩本はラバウル時代には201空、204空、253空と転々としているので、他の部隊では大量撃墜している可能性もあるが、ラバウルの熾烈な航空戦を岩本と一緒に戦った小町定も岩本については「空戦の腕も達者でしたが、口も達者で、いつも大風呂敷をひろげていた」と語っており(川崎P272)、撃墜数についても、暗に「編隊の戦果を混同しているのではないか?」というような事を指摘しているが(川崎P244)、そこらへんが事実なのであろう。

 

 

「ズルくても落とせばいい!?」岩本の空戦法

 

 岩本は緻密な計算の上で自身の戦法を編み出し、他人が非難を気にせずに実績を作り周囲を納得させるというタイプだったようで、ドッグファイトに参加せずに高度を取って上空を遊弋し、敵機を発見するや急降下、50m程度まで接近して後方より一撃した後、下方に抜け、上昇する際にまた別の敵機に下方より一撃した後、上空に戻るというような方法を多用していた。さらに他の搭乗員の攻撃によって傷付いた敵機を撃墜したり、空戦が終わって帰る敵機を付け狙い油断しているところを撃墜する「送り狼」戦法など、「卑怯」な戦法を好んだ。

 これについては、ラバウルの253空時代に同じ部隊にいた小町定飛曹長や日本のトップエースである西澤廣義が直接、岩本本人に「ズルい」と文句を言っているが、岩本は「そんなこと言っても、生きて帰せばまた空襲に来るんだぜ」と全く意に介さなかったという(神立P199、角田P358)。しかし口だけでなく、空戦の腕は相当であったらしく、前述の土方も岩本を「田舎の爺さんのような格好をしているが、向かうところ敵なしで、たいてい撃墜して帰ってくる。」と評しており(土方P226)、当時若手搭乗員であった阿部三郎もまた、「(空戦訓練は)何回やっても歯が立たなかった」と回述しているように(阿部P224)、口だけではなく空戦技術も相当なものであり、その名は海軍航空隊では有名だったようだ(久山P65)。

 

 

「意外と几帳面!?」岩本徹三の性格

 

08_零戦コックピット
(画像は零戦コックピット wikipediaより転載)

 

 このように書くと岩本は相当な暴れん坊であったと思われるかもしれないが、実はそうでもなかったようだ。元航空自衛隊のパイロットである服部省吾は岩本の著書を読んで「岩本徹三は人一倍素直に、そして真面目に訓練に取り組んでいたのではないか」と印象を語っている(服部P53)。実際、大雑把であったり、暴れん坊であったというような感じではなく、同年兵で主に母艦搭乗員として活躍した原田要によると、「岩本は性格は繊細で非常に緻密であり、そして要領がよく戦況把握が上手であった。」と言っている(原田P58,59)。さらに同じ部隊に所属していた安倍正治も岩本の印象を物静かであったと語っている(安倍P212)。

 しかし性格は強かったようで、夫人の岩本幸子による「亡夫岩本徹三の思い出」によると、岩本は、性格が強く、小学校時代にすでに先生をやり込めたりしていたようである(岩本P316)。岩本の性格は、真面目で几帳面、繊細で緻密、そして自分の信じたことを押し通す気の強さがあったようである。実際、253空時代に航空機受領で内地に帰った際、他部隊士官になぜ早く前線に行かぬのかと罵倒された際にも今までの実績と現状を説明した後に「トラック基地司令の命令以外に他所轄の者よりとやかく言われることはないと思います。」とはっきり言っている(岩本P247)。この性格の強さは特攻を求められた時も同様で周りの搭乗員が特攻に反対できずにいる中、上官に対してハッキリと「否」と言ったという(角田P340)。

 岩本は気が強い上に「ズルい」戦法を使うため周りからは煙たがれていたと思われがちであるが、空戦ではチームワークを大切にしており、岩本と一緒に編隊を組んだ瀧澤は後年、岩本は、やさしくてよく気を使ってくれるため、若手搭乗員には人気があったと語っている(瀧澤P203)。

 これは余談であるが、岩本は飛行場に迷い込んでいた皮膚病の犬を可愛がり、この犬を膝の上に乗せたまま邀撃に上がったこともあったという(阿部P224)。戦闘303飛行隊時代にも「ウルフ」と名付けたシェパードを買っていたと言われており(安倍P213)、動物が好きであったようだ。

 

 

おわりに

 

 岩本徹三は日中戦争から太平洋戦争終戦まで多くを第一線で戦い続けた稀有な搭乗員である。1944年、253空がトラック島に後退した時点での飛行時間も8,000時間と事実だとすれば相当なレベルである。撃墜数に関しては疑わしいものの、その空戦技術は非常に合理的であり、一対一の空戦でもかなりの技量を持っていたことは確かだ。周りの空気に流されず、特攻には明確に反対意見を述べ、自分の正しいと思った戦い方は誰に批判されようともこれを貫いた岩本徹三という人間はやはり立派であったといえる。

 

参考文献

  1. 岩本徹三『零戦撃墜王』今日の話題社1972年
  2. /昔尚紀『零戦最後の証言』1999年
  3. 秦郁彦監修『日本海軍戦闘機隊』酣燈社1975年
  4. ’瀚楾亜愕し確軅鐶盞眥得鏥3』大日本絵画2013年
  5. 土方敏夫『海軍予備学生空戦記』光人社2004年
  6. 安倍正治「我が胸中にのこる零戦撃墜王の素顔」『空戦に青春を賭けた男たち』2013年
  7. 川崎浹『ある零戦パイロットの軌跡』トランスビュー2003年
  8. 服部省吾「「一撃離脱」に徹した零戦撃墜王の合理的な戦い方」『歴史街道 岩本徹三と零戦』2009年8月号
  9. 原田要『零戦 老兵の回想』2011年
  10. ⊃昔尚紀『ゼロファイター列伝』講談社2015年
  11. 角田和男『零戦特攻』朝日ソノラマ1994年
  12. 久山忍『蒼空の航跡』光人社2014年
  13. 阿部三郎『藤田隊長と太平洋戦争』霞出版1990年
  14. 瀧澤謙司「世紀の奇略“渡洋零戦隊”始末」『伝承零戦』三巻1996年
  15. 梅本弘『ビルマ航空戦』上2002年

 


ミリタリーランキング

01_淡路
(画像は淡路 wikipediaより転載)

 

要約

 

 御蔵型海防艦は択捉型海防艦の設計を大幅に改良して誕生した海防艦である。択捉型の建造途中に設計が完了したため設計が反映できる艦から択捉型から御蔵型に変更された。大きな変更点は主砲に対空砲が装備されたこと、爆雷投射機が2基になり爆雷搭載量が36個から120個に増加されたこと、船体の構造が耐寒、耐氷仕様でなくなり構造が簡略化されたこと、船体が択捉型よりも1m延長したこと等がある。燃料搭載量を200トンから120トンに減らしたため航続距離は減少した。8隻が竣工、5隻が戦没している。

 

御蔵型海防艦

 

02_御蔵
(画像は wikipediaより転載)

 

海防艦とは

 海防艦とは1898年に制定された艦種類別である。これは主に旧式化した戦艦や巡洋艦に対して与えられた名称で、英語の「coast defense ship」を邦訳したもので沿岸防衛艦というような意味であった。このため海防艦とは新規に建造されるものではなく、第一線を退いた旧式艦艇が類別変更されるものであった。しかし軍縮条約の結果、駆逐艦の保有数にも制限がかかるようになると、日本海軍は、条約の制限外であった2000トン以下の艦艇の増強を開始する。その結果生まれたのが900トンクラスの警備用艦艇であり、日本海軍はこれもまた海防艦と呼称することにしたのであった。

 

 

 

建造

03_能美
(画像は wikipediaより転載)

 

 1941年、戦時計画により海防艦30隻の建造が始まった。これが択捉型でこの択捉型は、改占守型と呼べるようなもので個艦としては性能が良いものの量産に向かない占守型に小規模な改良を加えた程度のものだった。しかし太平洋戦争が始まると実戦部隊からのフィートバックがあり、設計を大幅に変更。新たに乙型海防艦と呼ばれる海防艦を設計した。以降、建造予定の択捉型も順次、この乙型海防艦に設計変更することとなった。その結果、30隻中、択捉型は14隻のみとなり、残りは乙型海防艦として建造されることとなった。この乙型海防艦こそが御蔵型である。

 それまでの占守型、択捉型は主に北方警備用に設計された艦であったため、北方警備用としては申し分ないものであったが、対空火器、対潜火器が貧弱で船団護衛等には向かず、また戦時設計ではない上に質の高い艦を持つことで欧米との数の格差を埋めようとする個艦優越主義の下に設計された艦であるため工期が非常に長く量産には向かない艦であった。御蔵型は初めてこれらの問題点を大掛かりに修正した艦であった。

 

 

御蔵型の特徴

04_屋代倉橋
(画像は wikipediaより転載)

 

 主な修正点としては、占守・択捉型海防艦で使用されていた旧式駆逐艦の主砲を転用した三年式45口径12センチ単装平射砲から45口径12センチ高角砲連装1基(A型改三)、単装1基に変更、爆雷投射機も択捉型が九四式爆雷投射機1基に対して御蔵型は倍の2基を搭載している。爆雷数も占守型が18個、択捉型が36個であったのに対して120個と一挙に3倍以上の搭載数となった。それまでの海防艦が高角砲を持っていないという致命的な欠点が本級より改善されている。その他、25mm連装機銃2基、掃海具等は択捉型と同じである。

 船体もそれまで北方で運用するために必要であった耐氷、耐寒機能も排除され、上甲板の上部構造の全通も廃している等、簡略化された構造になっている。全長は120個の爆雷を搭載するために1m延長延長され、建造には電気溶接も多用された。しかし燃料搭載量は択捉型200トンに対して120トンに減少されてしまった。これにより航続距離が択捉型が16ノットで8,000海里であるのに対して同ノットで5,000海里と3,000海里減少しているが戦時設計の海防艦としては十分な航続距離であると言って良い。

 これらの設計変更の結果、御蔵型は基準排水量は70トン増加して940トンとなり、航続距離こそは減少したものの、主砲は対空射撃可能となり爆雷搭載量は3倍以上となった。船体部の工事工数は占守型よりも40%、択捉型よりも20%減少しており、実際の建造期間も占守型の平均建造期間が271.8日となり、占守型の587.5日、択捉型の326.9日に比べると占守型の46%、択捉型の83%の工期で完成している。一応、択捉型の約8割で完成しているものの量産性はまだ高いとは言えず、さらに設計を簡略化した改乙型海防艦日振、鵜来型へと繋がっていく。

 

 

戦歴

04_屋代倉橋
(画像は wikipediaより転載)

 

 1943年10月30日に竣工した御蔵は、それまでの択捉型と同様に翌月には海上護衛総司令部に所属、船団護衛に活躍するが、1945年3月28日戦闘中に亡失、5月25日除籍となった。2番艦三宅は太平洋戦争を生き抜き、戦後復員船として活躍、役目を終え1948年7月2日に解体された。3番艦淡路は1944年1月25日に竣工、船団護衛に活躍するも同年6月2日、米潜ギターロの雷撃により沈没してしまう。僅か4ヶ月強の活躍であった。4番艦能美も1944年2月28日に竣工、船団護衛に活躍するが1945年4月14日米潜ティランテの雷撃により沈没した。1番艦御蔵と同日の5月25日に除籍される。

 5番艦倉橋は、2月19日竣工。船団護衛に活躍し終戦を迎える。戦後は6番艦屋代と共に掃海任務に就いた後、1947年9月賠償艦として英国へ引き渡されるが、当時の英国は同様の護衛艦が余っていたため1948年1月に解体された。6番艦屋代も船団護衛に活躍した後に終戦を迎える。前述の掃海任務に就いたのち1947年8月賠償艦として中華民国に引き渡される。艦名雪峰として活躍、1950年正安に改名、1963年に除籍解体された。

 7番艦千振は1944年4月3日竣工、レイテ沖海戦では燃料補給部隊を護衛、11月7日、マニラ湾にて僚艦と共に米潜グロウラーを撃沈するが、翌年1月12日、米雷撃機の空爆により撃沈。3月10日除籍となる。8番艦草垣は1944年5月31日に竣工するも8月7日、3番艦淡路を撃沈した米潜ギターロの雷撃により沈没、10月10日除籍となる。約2ヶ月の短い活躍であった。

 

まとめ

 

 御蔵型海防艦は択捉型海防艦の建造中に設計が完成し、間に合った艦から御蔵型に変更されていった。船体は簡略化したが、装備は択捉型を大きく上回っていた。合計で8隻が竣工したが、内5隻が戦火の中で失われ、終戦時に残存していたのは僅か3隻のみであった。船団護衛に東奔西走した海防艦、その戦いの激しさはこの数字からも明らかである。

 

関連リンク

前級択捉型海防艦

 

 

↓良かったらクリックして下さい。


ミリタリーランキング

 

01_択捉
(画像は wikipediaより転載)

 

要約

 

 択捉型海防艦は太平洋戦争開戦前に計画、開戦後に建造された海防艦で基本設計は占守型海防艦と同じであり、違いは船首と舵の形状、爆雷搭載数が増えたこと等である。短期間の工期で建造するための設計の簡略化は不十分であったが、それでも占守型の56%の工期で建造、戦中に14隻が竣工、南方での船団護衛に活躍したが、8隻が戦没している。戦後生き残った数隻は中華民国や人民解放軍に編入されて戦後も活躍した。

 

択捉型海防艦

 

02_佐渡
(画像は wikipediaより転載)

 

海防艦とは

 海防艦とは1898年に制定された艦種類別である。これは主に旧式化した戦艦や巡洋艦に対して与えられた名称で、英語の「coast defense ship」を邦訳したもので沿岸防衛艦というような意味であった。このため海防艦とは新規に建造されるものではなく、第一線を退いた旧式艦艇が類別変更されるものであった。しかし軍縮条約の結果、駆逐艦の保有数にも制限がかかるようになると、日本海軍は、条約の制限外であった2000トン以下の艦艇の増強を開始する。その結果生まれたのが900トンクラスの警備用艦艇であり、日本海軍はこれもまた海防艦と呼称することにしたのであった。

 

 

 

船団護衛用海防艦

 1941年、日米開戦の可能性が濃厚になる中で日本海軍は戦時体制に徐々に移行している。この中で計画されたのがマル急計画と呼ばれる戦時建造計画であった。この計画には、米英国と戦争が開始された場合に必須となる南方地帯からの物資輸送を護衛するための護衛用海防艦30隻の建造が含まれていた。これが択捉型海防艦であった。主に南方での運用を前提にしていた海防艦であり、戦時大量生産を考慮すべきであったのだが、時間の制約上、新規に設計することはなく、占守型海防艦の設計をほぼそのまま受け継いだものであった。このため公式には択捉型海防艦は占守型海防艦として分類されている。

 

択捉型海防艦の性能

 占守型との違いは、舵を半平衡舵から平衡舵に変更して大型化していることや艦首を直線に近い形状にして簡略化等である。その他も出来るだけ簡略化を図り、生産性を向上させている。武装は占守型と大きく変わらず、主砲は旧式駆逐艦の物を再利用した三年式45口径12センチ単装平射砲3門で、この砲は旧式な上、仰角が+33°と対空射撃には向かない砲であった。対空用の武装としては25mm連装機銃2基、さらに対潜用に九四式爆雷投射機1基を装備していた。爆雷数のみは占守型の18個に対して倍の36個を搭載している。タービンは占守型と同じ22号10型ディーゼル機関2基2軸で最大速度19.7ノット、航続距離も16ノットで8,000海里と占守型と同等の性能を持っている。燃料搭載量は占守型よりも20トン少ない200トンである。レーダーやソナーは装備に間に合った艦は新造時から搭載している。

 戦時を意識して計画された艦ではあったが、元になった占守型は軍縮条約によって保有量において不利となった日本海軍が個艦の性能を米英に比して高性能とすることで量の不利を補おうとする個艦優越主義の下に設計された艦なので個艦としての能力は高いものの、大量生産には向かない設計であった。このため建造計画30隻の内、16隻は、のちに乙型、改乙型の設計が完了するとそれぞれの型に設計が変更されていき、結局、択捉型として完成したのは14隻のみであった。

 

 

建造

03_満珠
(画像は wikipediaより転載)

 

 この択捉型14隻の内、起工したのは2番艦松輪が最初で1942年2月20日に起工、続けて3、4番艦が2月中に、1番艦も翌3月には起工した。1943年3月23日に2番艦松輪が最初に竣工したのを皮切りに13隻が1943年中に竣工している。一番最後の択捉型は14番艦笠戸で、1943年8月10日起工、1944年2月27日に竣工している。全14隻の平均工期は326.9日で最短が14番艦笠戸の201日、最長が1番艦択捉の418日である。戦時急造と呼べるレベルの工期ではないが、それでも占守型の平均工期587.5日に比べれば択捉型は占守型の約55.6%の工期で完成している。無論、占守型が平時の建造で択捉型が戦時中の建造であることもあるので一概に比較はできないがそれなりの数字といえる。

 

戦中、戦後の活躍

 起工から約1年の1943年3月に2番艦松輪が竣工、同月中にさらに2隻、5月に2隻、6月に1隻、7月に2隻と順次竣工していった。1944年2月に竣工した14番艦笠戸まで合計14隻の択捉型海防艦は占守型が主に北方警備に使用されたのに対して南方の船団護衛に使用された。そのため損害も多く、終戦までに全14隻中8隻が戦没、1隻大破、1隻は修理中で終戦時に稼働状態にあったのはわずか4隻のみであった。

 択捉型海防艦で終戦を迎えたのは合計6隻で、4隻が稼働状態、1隻が大破状態。1隻が香港で修理中であった。大湊で大破状態であった14番艦笠戸はそのまま修理されることなく1948年に解体。稼働状態にあった4隻は戦後復員船として多くの日本人を内地に帰した後、戦時賠償艦として連合国に引き渡された。この4隻の内、1番艦択捉、10番艦福江はそれぞれ米国と英国に引き渡されたものの、これらの国では使用されることもなくどちらも1947年中に解体されている。残り2隻は中華民国に引き渡され、4番艦隠岐が「固安」、7番艦対馬が「臨安」として中華民国海軍に編入された。さらに終戦時修理中であった12番艦満珠も中華民国が海防巡艦七号として押収された。

 中華民国に押収された択捉型海防艦の内、臨安(対馬)は、中華民国海軍の艦艇として人民解放軍相手に活躍したのち退役、1963年に解体された。固安(隠岐)は1949年2月に人民解放軍に鹵獲され、機雷敷設艦「長白」として南海艦隊に編入、1982年に除籍された。海防巡艦七号(満珠)は1949年に人民解放軍に鹵獲され、1954年に「南寧」として南海艦隊に編入、1979年に退役した。

 

まとめ

 

 択捉型海防艦は、占守型と異なり主に南方での船団護衛に使用された。このためほぼ同型艦でありながら主に北方警備に使用された占守型が太平洋戦争終戦までに4隻中、1隻が撃沈されたのみであったが、択捉型は14隻中8隻を失い、稼働状態にあるのはわずか4隻という満身創痍の状態であった。対潜護衛を第一目的に設計された択捉型は、戦没艦8隻中6隻が潜水艦による雷撃での戦没であったことは皮肉であった。日本と米国の国力、技術力の差が如実に表れてしまった結果であったといえる。

 

関連リンク

前級占守型海防艦

 

-->

 

↓良かったらクリックして下さい。


ミリタリーランキング

 

01_占守
(画像は占守 wikipediaより転載)

 

要約

 

 占守型海防艦とは日本海軍が主に北方での漁船の警備、救難のために建造した排水量860トンの小型艦艇である。北方での活動を想定していたため、船体は耐氷構造で、解氷装置、暖房等が充実していた。速度は19ノットと遅いもののディーゼル機関の採用により航続距離は長く燃費の良い艦であった。高性能であったが、武装は旧式駆逐艦から転用した12センチ平射砲、爆雷数も少なく、何よりも造船工数が多く、量産には不向きな艦であった。4隻中3隻が終戦を迎え、1隻が賠償艦としてソビエトに引き渡された。

 

占守型海防艦

 

02_国後
(画像は国後 wikipediaより転載)

 

海防艦とは

 海防艦とは1898年に制定された艦種類別である。これは主に旧式化した戦艦や巡洋艦に対して与えられた名称で、英語の「coast defense ship」を邦訳したもので沿岸防衛艦というような意味であった。このため海防艦とは新規に建造されるものではなく、第一線を退いた旧式艦艇が類別変更されるものであった。

 この流れが変わったのが1930年のロンドン海軍軍縮条約の締結であった。この条約は列強各国の補助艦艇の建造を制限するためのもので、この条約の結果、それまでのワシントン海軍軍縮条約では対象外であった空母、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦に至るまで軍縮の対象となった。しかしこの条約では排水量2000トン以下、速力20ノット以下、備砲6.1インチ砲4門以下の艦は対象外とされた。つまりは無限に建造することが可能なのだ。

 

 

北方警備用艦艇

 では、この無制限の枠をどう使うのか。日本海軍が考えたのは、北方警備用艦艇の建造であった。当時の日本の国土は北は南樺太、占守島を北端とする千島列島が含まれており、この海域の豊富な漁業資源を求めて多くの日本漁船が操業していた。この日本漁船の警備や事故時の救助等をするために速度は遅くとも航続距離が長く耐氷性に優れた艦艇が必要とされていたが、日本海軍には適当な艦が存在しなかった。このため海軍は駆逐艦を派遣して代用としていたのだ。

 しかし駆逐艦とは本来艦隊戦闘を行うための艦種であり、速度は速く小回りが利くように設計されている。武装も魚雷を装備する等重武装であるが、こと漁船の警備、救助等にはオーバースペックであり、むしろ高速、重武装故の燃費の悪さや北方の極寒海域で活動するための専用装備を持っていない点がマイナスポイントであった。

 北方警備用の専用艦艇を開発することは上記の点からメリットがあったのは言うまでもないが、ロンドン海軍軍縮条約によって保有数が制限された駆逐艦を北方警備から本来の任務に戻すということも重要な目的であった。このため海軍はロンドン海軍軍縮条約が締結された翌年の1931年から北方警備用艦の建造を計画するが、予算不足のため実現するには至らなかった。

 

新型海防艦完成

03_八丈
(画像は八丈 wikipediaより転載)

 

 初めて建造計画が承認されたのが、1937年の第三次補充計画でこれにより警備用小型艦艇の建造が決定した。この小型艦艇は海防艦に類別され翌年の1938年に建造開始、のちに占守型海防艦と命名された。排水量は860トンであるが、計画の排水量は1200トンとされた。これは同計画で計画されていた戦艦大和を秘匿するためのもので大和の排水量65000トンを同計画で建造される様々な艦艇に割り振ったためである。

 前述のように北方警備を主目的に設計された艦であるため舷側は高く、船体は耐氷構造となっている。暖房設備は充実しており、艦内は露天甲板に出ることなく移動することが可能であった。当時の日本の艦艇の建造方針である個艦優越主義の下に設計された艦であるため艦自体のスペックは高かったが、大量生産向きではなく、造船工数は9万と後の丙型海防艦の4倍近い工数を必要とした。

 機関は燃費の良い22号10型ディーゼル機関を採用、2基2軸で出力4,050馬力、速力19.7ノットと駆逐艦の70%程度の速力しかないものの、航続距離は16ノットで8,000海里と同じ7弉茲之造された陽炎型駆逐艦の18ノットで5,000海里よりも遥かに長大なものであった。搭載している燃料が占守型220トンに対して陽炎型622トンであることからも占守型の燃費の良さが良く分かる。因みにこの22号10型ディーゼル機関は飛行艇母艦秋津洲、潜水空母伊号13型等に採用されている。

 武装は主砲に三年式45口径12センチ単装平射砲3基を装備したが、これは予算の都合上、旧式駆逐艦の「おさがり」であった。大正3年に開発されたこの砲は手動式で射程距離15,000mであるが、仰角が+33°であり、航空機に対しては無力であった。占守型はのちにソナーやレーダーも追加で装備されていくが、この主砲が換装されることはなかった。北方警備が主目的ではあったが、掃海や艦船の護衛等も任務としているため、25mm連装機銃2基、九四式爆雷投射機1基、爆雷18個、掃海具を装備している。

 そしてこの占守型海防艦に対しては軍艦籍が与えられた。この「軍艦」とは日本海軍の軍制上の用語であり、一般に言う軍艦とは異なる。簡単に説明すると、日本海軍の艦艇には軍艦とそれ以外の艦艇があり、軍艦の方がランクは上であった。このため軍艦の艦首には菊の御紋と呼ばれる金色の菊のエンブレムが取り付けられた。軍艦籍を与えられている艦種は、主に戦艦、空母、巡洋艦等の大型艦艇であり、駆逐艦、潜水艦等には与えられていなかった。

 900トンに満たない占守型海防艦に対して軍艦籍を与えられた理由は、海防艦の主目的が北方海域で活動する日本漁船の警護や救難が任務であったからだ。これらの任務の遂行上、ソビエト連邦の艦船等とやり取りする必要性があることが想定されたため、通常の艦艇よりも上のランクの軍艦籍が与えられたのだった。

 

占守型海防艦の活躍

04_石垣
(画像は石垣 wikipediaより転載)

 

 同型艦は占守、国後、八丈、石垣の4隻で、1番艦占守が1938年11月に起工、続いて国後が1939年3月、八丈、石垣が同8月に起工している。2年弱の建造期間を経て1940年6月30日に占守が竣工、続いて国後が同年10月3日、4番艦石垣が1941年2月15日、遅れて3番艦八丈が同年3月31日に竣工している。

 1940年、6月30日、最初に竣工した1番艦占守は、舞鶴鎮守府に本籍を置き(つまり舞鶴が占守の母港)、第二遣支艦隊、南遣艦隊に配属され、主に南シナ海方面で作戦に当たった。1940年から1941年初頭に次々と竣工した占守型も全て本籍は舞鶴で、2番艦国後、4番艦石垣は竣工後すぐに大湊要港部部隊に編入、3番艦八丈は占守と共に第二遣支艦隊、南遣艦隊と異動したのち、1941年10月には国後、石垣と共に大湊要港部部隊に編入された。ここで占守以外の3艦は本来の目的である北方警備の任に就いた。

 太平洋戦争が始まると2番艦以降は引き続き北方警備の任に就き、1番艦占守のみは南方作戦に活躍した。1942年7月1日には、類別等級が改正、海防艦が軍艦籍から除籍され、ただの海防艦となった。1944年7月10日、4番艦石垣が米潜水艦により撃沈され北方警備の占守型は2隻のみとなったが、1945年1月には占守が大湊警備府に配属、再び姉妹艦3隻が北方の警備、救難等に活躍、終戦を迎えた。

 戦後は空襲で被弾した八丈はそのまま舞鶴で放置、1番艦占守、2番艦国後の2隻は復員船として復員業務に当たったが、国後は静岡県御前崎付近で座礁、そのまま放棄された。八丈は1948年に解体されたが、無事に生き残った占守は戦後に賠償艦としてソビエトに引き渡され、ソビエト太平洋艦隊に編入された。1953年には通報艦、1957年には工作艦に類別変更され運用されたのち1959年5月に退役、解体された。

 

まとめ

 

 戦前の個艦優越主義の下に設計された艦であったため大量生産には向かず、造船工数も丙型海防艦の24000に対して90000と圧倒的に多かった。そして主砲も平射砲で対空射撃は出来ず、爆雷も18個と貧弱であった。しかしこれらの装備は、平時の漁船警護、救難活動等を主な目的として想定していたためであり、個艦としては高性能な艦艇であった。幸運にも戦前に竣工した艦でありながら終戦時には4隻中3隻が残存していたという幸運な型でもあった。

 

 

↓良かったらクリックして下さい。


ミリタリーランキング

 

↑このページのトップヘ