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戦艦富士01
(画像はwikipediaより転載)

 

 富士級戦艦はイギリスのロイヤル・サブリン級の改良型で、日本初の近代戦艦であり、当時の新鋭戦艦であった。同型艦は2隻で日露戦争で活躍する。戦艦富士は日露戦後も運用され、推進器を撤去されながらも練習艦として太平洋戦争終戦まで使われ続けた。

 

戦艦富士級 〜概要〜

 

性能

 通常排水量 12533トン
 最大排水量 -トン
 全長 114m
 全幅 22.3m
 吃水 8.1m
 機関出力 1万3500馬力
 最大速力 18.3ノット
 航続距離 7000海里/10ノット
 乗員 726名
 武装 30.5cm砲2連装2基
    15.2cm単装砲10基
    4.7cm単装砲24基
    45cm水上発射管1基
    45cm水中発射管4基
 装甲 舷側45,7cm
    甲板6.3cm
    主砲-cm
 同型艦 2隻

 

特徴

 1880年代に仮想敵国であった清国に対抗するために日本がイギリスに発注した戦艦である。1番艦富士はテームズ鉄工所、2番艦八島はアームストロング社のエルジック造船所で1894年に起工した。本級はイギリスのロイヤル・サブリン級の改良型で排水量は若干少ないものの性能面では優れていた。

 ロイヤル・サブリン級の主砲が30口径34cm連装砲で天蓋の無いオープントップ式であったのに対して本級は新型のアームストロング式40口径30.5cm連装砲が装甲砲塔内に搭載されていた。砲塔の旋回、俯仰は水圧駆動、砲弾の昇降は電動駆動で行われた。発射速度は1発/1.5分であり、斉射後は砲塔を艦の中心線に合わせないと次弾を装填できないという弱点もあった。

 主缶は石炭専焼缶を10基搭載、2軸推進により18.3ノットの速力を出すことが出来た。富士と八島はほぼ同じ設計であったが船体サイズはわずかに富士の方が大きく艦尾舵の装着部の形状、機械室・缶室の通気筒の大きさなども異なっている。

 

建造

 1番艦富士は1894年8月にテームズ鉄工所で起工、1897年8月に竣工した。2番艦八島は1894年9月に起工、1897年9月に竣工した。1番艦富士は竣工に先立って領収、竣工後直ちに日本に回航され10月末に横須賀到着する。八島も9月にイギリスを出発、11月末に横須賀に到着した。

 

 

戦艦富士級の活躍

 

1番艦富士

戦艦富士
(画像はwikipediaより転載)

 

 1897年10月末に日本に到着した富士は11月に警備艦、12月に常備艦隊に編入される。1898年3月には一等戦艦に類別された。1903年、連合艦隊に配属される(当時の連合艦隊は常設ではなかった)。1904年に日露戦争が始まると富士は主力艦として旅順口攻撃を始め、黄海海戦、日本海海戦に活躍する。

 1912年、一等海防艦に指定され、類別上戦艦ではなくなる。翌年の1913年には練習艦に指定、1922年9月には軍艦籍から除籍、運送艦、さらに12月には練習特務艦となった。その後ワシントン軍縮条約に基づき装甲を撤去、運用術練習艦となった。1923年の関東大震災では救護活動に活躍する。

 1926年には横須賀に係留され定繋練習艦となる。1934年には推進器を撤去、海軍公開学校が創設されると航海学校保管艦となり浮校舎となった。1945年7月連合国軍の空襲により被爆着底する。1945年11月除籍、1948年5月に解体された。

 

2番艦八島

戦艦八島
(画像はwikipediaより転載)

 

 1897年11月に日本に到着した八島は、1898年3月には一等戦艦に類別、1903年、連合艦隊に配属される。1904年日露戦争が始まると旅順口攻撃、旅順港閉塞作戦に参加するが、1904年5月旅順港沖合を航行中、機雷に触雷し総員退艦の後転覆沈没した。

 日本海軍は国民の動揺を防ぐために事実を1年以上も秘匿、日本海海戦直後の1905年6月に喪失を公表する。1905年6月軍艦籍より除籍。

 

戦艦富士級(模型)

 

1/700 日本海軍戦艦 富士

シールズモデルズ

 富士級戦艦の1番艦。イギリス製戦艦で日露戦争では主力艦の1隻として日本海海戦を始めとする各種作戦に参加する。戦後は練習艦となり、太平洋戦争終戦まで使われ続けた名艦である。

 

まとめ

 

 富士級戦艦は当時の日本が宮廷費の削減、公務員の俸給1割減までして購入した新鋭戦艦であった。日露戦争で活躍したが、初戦期に八島は触雷により失われてしまう。しかし富士はその後も活躍を続け日本海海戦の勝利に貢献する。当時の日本を背負った戦艦であった。

 

関連リンク

前級ロイヤルサブリン級戦艦

 

次級敷島級戦艦

 

 

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ダブルイーグル
(画像はwikipediaより転載)

 

 ダブルイーグルとは1989年にコルト社が発表した同社初のダブルアクションオートである。コルトデザインは「1911」の影響を受け、スライド、バレル、マガジンの互換性もある。各種口径のバージョンが発売されたが1997年に生産が終了している。

 

ダブルイーグル(実銃)

 

 

性能

全長 216mm
重量 1,205g
口径 45口径
使用弾薬 45ACP
装弾数 8発
設計・開発 ロン・スミス / コルト社

 

概要

 ダブルイーグルは、1989年にコルト社が発表したコルト初のダブルアクション45オートである。設計は1911をベースにしたもので、スライド、バレルはM1911と互換性があり、マガジンも装弾数は8発であるが、通常のM1911の7連発マガジンとの互換性がある。フレーム内のメカニズムは新しく設計されたもので、ダブルアクションであるため必要性の低いサムセイフティ、グリップセイフティは廃止された代わりにトリガー後方にはデコッキングレバーが装備されている。

 メカニズムはダブルイーグル発売以前にM1911をダブルアクション化したシーキャンプとは外観上は似ているが、全く異なるコルト社独自の設計である。コルト独自のダブルアクションのトリガーフィーリングは市場では評判が悪く、オールステンレス製の銃は重量も相当重かったため、あまり人気が出なかった。1997年に生産終了している。

 バリエーションはフルサイズモデルの他に銃身長4.25インチ、重量1.13kg(装填時)のコマンダーモデル(装弾数8発)、3.5インチバレルのオフィサーズモデル(装弾数8発)がある。どれも装弾数は8発である。1991年にはマーク競轡蝓璽90としてマイナーチェンジを行った。1992年には、フルサイズモデルに9mmと38スーパー弾を使用するモデルが登場している。同年にはコマンダーモデルで40S&W弾を使用するモデル製造は1997年まで続けられた。口径は45口径の他に10mm(1992年)、40S&W、9mm、38スーパーの各種口径が存在する。さらにはトリガーメカニズムを再設計したダブルイーグルマーク兇存在する。

 材質はほとんどがステンレス製であるが、ライトウェイトオフィサーズモデルは合金製のフレームにスチール製のスライドをを装備している。他にもコルトカスタムショップが製作したフルサイズのスチールスライド、アルミフレームモデルが存在する。

 

 

ダブルイーグル(トイガン)

 

概要

 マイナーな銃であるためトイガンではほとんど発売されていない。LSがエアーコッキングガンとして発売していたのと東京マルイが同様にエアーコッキング式のエアガンとして発売している。モデルガンでは発売されていない。

 

東京マルイ エアーハンドガン(18才用モデル)コルト ダブルイーグル

性能

全長 220mm
重量 310g
装弾数 25発

 現在、ダブルイーグルをモデルアップしている唯一の会社である。マガジンは割箸マガジンではなくフルサイズである。初速は10歳以上対象モデルでは40m/s弱、18歳以上対象モデルでは50m/s弱程度で、命中精度はエアコキにしては5mで5cm程度と比較的良い。ハンマーはダミーで外観のシルバーはメッキ処理はされていない。

 

まとめ

 

 今回はダブルイーグルを取り上げてみた。デザイン的にもパッとせず、人気も無く、故に知名度も低いという歴史に埋もれてしまった銃だ。商業的には失敗であったが、このダブルイーグルによってコルト社は伝統的なシングルアクションオートからダブルアクションオートに進化した記念碑的な銃である。

 

 

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01_九八式水上偵察機
(画像はwikipediaより転載)

 

 九八式水上偵察機とは、日本海軍のお家芸である夜襲水雷戦で敵艦隊の補足、着弾観測を行う専用の水上機であった。水雷戦隊旗艦に搭載されて運用されたが、夜襲水雷戦の重要度が下がったことやレーダーの登場等により後継機は製作されなかった。日中戦争から太平洋戦争初期まで活躍した。

 

九八式水上偵察機 〜概要〜

 

性能

全幅 14.49m
全長 10.71m
全高 4.52m
全備重量 3,300kg
最大速度 217km/h
上昇力 3,000mまで18分35秒
上昇限度 4,425m
エンジン出力 620馬力(九一式22型水冷)
航続距離 2,065km(15時間)
乗員 3名
武装 7.7mm機銃1挺
設計・開発 森盛重 / 愛知時計電機

 

背景から開発まで

 夜間偵察機(夜偵)とは水雷戦隊の夜襲を重視した日本海軍独自の機種で、水雷戦隊の夜襲時に敵艦隊に夜間接触するための専用の偵察機である。この夜間接触専用の機体を開発したのは日本海軍だけである。最初の夜偵は1932年に初飛行した愛知時計電機製六試夜間水上偵察機で飛行艇の形式を採用していた。これは6機製作されたが制式採用とはならず民間航空会社に払い下げられた。そして1936年7月13日、初めて夜間偵察機として愛知製九六式水上偵察機が制式採用された。

 

開発

 九六式水偵が制式採用された1936年10月1日、海軍は愛知と川西に十一試特種偵察機(E11A1)の開発を指示した。これに対して愛知は森盛重技師を設計主務者として開発を開始、翌年の1937年6月に試作1号機を完成させた。十一試特偵の形状も今までの夜偵と同様の飛行艇型で複葉単発、金属製の骨組みに羽布張りであった。機体をフロート付きの水上機ではなく飛行艇の形状にしたのは夜間の離着水を容易にするためで、風防は密閉式の涙滴型風防でエンジンは、愛知製水冷九一式22型(500馬力)で上翼中央に取り付けられた。プロペラは木製4翅、カタパルトによる射出が可能で主翼は上下共に後退角が付いており、後方に折り畳むことができた。

 性能は、最高速度が216.7km/h、高度3,000mまでの上昇時間が18分35秒、実用上昇限度が4,425m、航続距離が2,065kmであった。競合していた川西も試作機を提出したが、最高速度こそ231km/hと愛知製試作機よりも上だったものの全体的には愛知製が優れており、1938年6月27日、九八式水上偵察機として制式採用された。

 

 

生産数

 1937年から1940年までに試作機と増加試作機合わせて17機が生産された。終戦時には5機が残存している。

 

戦歴

 制式採用された九八式水偵は、水雷戦隊旗艦に配備された。1939年には軽巡川内、那珂の2隻に搭載、太平洋戦争開戦時には第一水雷戦隊旗艦軽巡阿武隈、第二水雷戦隊旗艦神通、第三水雷戦隊旗艦川内、第四水雷戦隊旗艦那珂の4隻にのみ搭載されている。水雷戦隊は他に第五、第六があるが、第五水雷戦隊は九四式水偵装備、第六水雷戦隊旗艦の夕張は航空機搭載能力を持っていなかったために九八式水偵は搭載されていない。

 九八式水偵の搭載艦はわずか4隻であるが、これらの艦艇にも任務に応じて九四式水偵が搭載されており、実際に搭載されていた機体は極少数である。太平洋戦争では、当時第五水雷戦隊旗艦であった神通に搭載されていた九八式水偵がスラバヤ沖海戦で11時間にわたり敵艦隊の夜間接触を行っている。但し、これも九四式水偵であったとする資料もある。

 実際の運用では夜間水偵という使用目的が限定された機種というのは使い勝手が悪かったのだろう。編成表には搭載する予定になっていても実際には零式水偵が搭載されている場合が多い。さらに開発時に想定されていた艦隊決戦も航空機が主力となったために実現することはなく、九八式水偵は姿を消していった。

 

まとめ

 

 夜間偵察機は艦隊決戦、夜襲水雷戦で敵艦隊の補足、着弾観測を行う専用の機種であった。夜間であるため戦闘機からの攻撃は考慮する必要はなかったが、代わりに長時間滞空出来る必要があった。このため九八式水偵は15時間に及ぶ滞空能力を持ち、演習時などには黒単色に塗装された本機が一晩中艦隊の上空に貼り付いている姿は非常に不気味であったという。夜間偵察の重要性が低くなったのと零式水上偵察機で代用可能であったため、本機以降、夜間偵察機という機種は制式採用されていない。

 

 

 

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01_彩雲
(画像はwikipediaより転載)

 

読書の感想4冊

 

柳谷 晃『一週間はなぜ7日になったのか』

 最近、中学高校の数学をもう一度やり直したくなって読んだ一冊。数学が大の苦手だった文系のアタクシ。いきなり教科書を読んでしまうと失神、卒倒してしまうのでまずは数学に慣れるところからとあまり勉強と関係のないところから攻めたのだ。

 内容はピラミッドの数学的な法則から始まり、ピラミッドが宇宙の法則を表していることを解説している。もちろん宇宙の法則といってもスピリチュアルなものではなく、地球が太陽を一周するのが365日であることや地球と太陽の距離などの科学的なもの。当時のエジプトの学者はそれらを理解しており、それらをピラミッドの構造に表現しながら設計していた。

 タイトルに関しては中盤に説明があるが、そもそも人間は目で見てすぐに分かる月を時間の基準にしていたようだ。月は29.5日で満月から次の満月になる。この29.5日を4等分すると大体7日になるというのが理由だそうだ。なぜ4等分かというと、それは満月→半月→新月→半月→満月と4等分は見た目で分かりやすいのだ。

 奇しくも以前から何故暦は一年を12ヶ月に分けてさらに一週間に分割されているのだろうと疑問に思っていた私としてはスッキリしたのだった。内容は面白かったが、中学高校の数学の勉強のとっかかりとはならなかった。もちろん著者が悪い訳ではない。

 

 

高橋一雄『つまずき克服!数学学習法』

 それではイカン!と思い読んだのが本書。こちらは本当の中学数学の入門書。小学生の算数から数学になったときに付いていけなくなる理由は、小学生の算数に対して中学の数学は抽象的だからだという。それまでの具体的なものをイメージしやすい算数から「x、y」等の記号が登場してくる。さらにそれを基礎としてどんどん抽象的になっていくのだ。

 アタクシが本書に興味を持ったのが、著者の高橋一雄氏は高校三年生まで数学の偏差値が38という超数学劣等生。中高の数学に付いていけなかった人が書いた数学の本は文系一筋のアタクシには非常に理解しやすいのだ。数学に限らず面白く学問を解説する系の本を書いているのは大体、その筋(暴力団関係者とかではなく)の専門家、専門家とは大好きな人がなるものなので、その学問が理解できない人や嫌いな人の気持ちが分からないのだ。

 そこにいくと高橋一雄氏は出来ない人や嫌いな人の気持ちが良く分かっている。出来なかった人は大体できないままで終わるのでこういう人の著書はかなり貴重なのだ。因みにあまりにも面白かったので同氏の著作を検索していたら高橋一雄『神龍特別攻撃隊』というのが出てきて爆笑してしまった。もちろん数学の学習書ではなく、同姓同名の別人である。数学がちょっと面白そうだと思えた一冊であった。

 

 

 

高橋一雄『神龍特別攻撃隊』

 せっかくなのでこちらも紹介。こちらは旧日本海軍のパイロットであった高橋一雄氏。海軍のパイロットなのでもちろん数学は出来たと思うが、上記書籍とは全く無関係の別人。高橋氏は予科練6期生という超ベテラン搭乗員。日本のトップエースの一人である西澤廣義飛曹長よりも一期先輩ということですごさも分かるというものだ。

 高橋氏は戦闘機ではなく水上機一筋。水上機というのは離着水がかなり難しく、水上機から陸上機への転科は出来るが逆はないと言われるほどだ。重巡熊野乗組から重巡利根乗組と艦載水上機の道を歩む。我々オタクの興味を引くのは伊400潜搭載の特殊攻撃機晴嵐の搭乗員であったことだろう。

 晴嵐とは潜水艦搭載の攻撃機で当時の零戦数十機分のコストをかけて製造された超高性能機であった。完成すると「潜水空母」伊400型に搭載されパナマ運河を攻撃する計画であった。実際にパナマ運河の攻撃は行われなかったが、終戦直前に晴嵐を搭載した伊400型は出撃している。

 本書はパイロットとしての側面から晴嵐について書かれた珍しい本だ。著者は操縦性の良い晴嵐に惚れ込んでしまったようだ。晴嵐を操縦した操縦員はかなり少ない。本書は貴重であるが、それだけではなく、潜水艦伊37潜に乗艦していた時、第6潜水艦隊司令部の命令で撃沈した商船から脱出した無抵抗の乗組員を銃撃して虐殺したというような戦争の暗部もまた描かれている。

 

 

 

田中三也『彩雲のかなたへ』

 偵察機といえば高速偵察機彩雲。著者の田中氏は偵察機偵察員。偵察員とは操縦ではなく航法や写真撮影等をやる専門家。GPSが無かった当時、航法というのは職人技といえる精密なもの。特に方角と速度、偏流のみで測定する推測航法は難易度が高く、1,000回測定して一人前と言われるような技の世界だ。写真偵察も同様。当時の写真機は大型で操作にも熟練が必要なのだ。

 田中氏はこの偵察のエキスパート。海軍の教育課程の最上位に位置する特修科で訓練を受けた一流のオペレーターであり写真偵察の専門家であった。田中氏は前述の高橋氏同様、水上機搭乗員として利根乗組から二式艦偵に移る。因みに高橋氏が1942年5月に利根から移動となり、田中氏が同年7月から利根乗組となっているので入れ違いであったようだ。

 まさに偵察のエキスパートであり、戦法も悪天候を利用して敵艦隊上空に到達、急降下して艦隊の隙間をすり抜けて脱出する等、実戦で鍛え上げた強烈な戦い方だ。南太平洋海戦では空母ホーネット発見の功績も挙げている。その後、水偵から艦上偵察機に移り、二式艦偵、彗星、そして新鋭偵察機彩雲と乗り継いでいく。

 彩雲とは米国の新鋭戦闘機F6Fの追跡を振り切り「我に追いつくグラマンなし」と電報を打ったことで有名な高速偵察機である。田中氏はこの彩雲で紫電改で編成された決戦部隊である343空に参加、沖縄への強行偵察等も行う。戦後は海上自衛隊で対潜哨戒部隊に所属、定年を迎えるが、戦後も民間で空撮を行い総飛行時間は合計で5,500時間という偵察に一生を捧げた人生であった。読んでいて鳥肌ものである。

 

 

 

 

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01_ハードボーラー
(画像はwikipediaより転載)

 

 ハードボーラーとはAMT社が1977年に発売したM1911、いわゆる「ガバメント」のクローンである。当時としては珍しいオールステンレス製で調整可能なリアサイトと大型のビーバーテイルを装備した先進的なハンドガンであった。映画『ターミネーター』でターミネーターが使用した「45口径レーザーサイトピストル」として有名である。

 

ハードボーラー(実銃)

 

 

性能(7インチ)

全長 267mm
重量 1,306g
口径 45口径
使用弾薬 45ACP弾
装弾数 7発
設計・開発 AMT社

 

概要

 ハードボーラーは1977にAMT(アルカディア・マシン・アンド ツール)社から発売されたコルトM1911のコピーモデルである。M1911コピーとしては初のステンレス仕様であった。特徴としてはステンレス製であることの他、アジャスタブルリアサイト、大型ビーバーテイル付きのグリップセイフティが挙げられる。「ハードボーラー」という名称の由来は、45ACPフルメタルジャケット弾以外の弾の使用が奨励されていないことによる。フルメタルジャケットとは、鉛の弾頭が前部薄い銅で覆われている弾丸である。これにより目標物に命中した際も弾丸の形状が変化しにくく貫通力が増すという特徴がある。

 ハードボーラーがこの45口径ハードボールの使用が奨励された背景には、初期のモデルではフィーディングランプ(弾倉から薬室に弾丸を送り込む際に弾丸が通過する滑り台のような形状のパーツ)の形状に問題があり、完全に銅で被甲されているハードボールでなければ引っかかってしまうという理由があった。これは後には改良されている。2002年に生産が終了した。

 

バリエーション

 コンバットガバメントは、1978年に警察向けに発売されたモデルでリアサイトは固定式となっている。1985年からは単にガバメントと呼ばれる。1980年には4インチスライドモデルのスキッパー、7インチスライドのロングスライドが発売されている。この7インチモデルは、1984年の映画『ターミネーター』でターミネーターがレーザーサイトを装着した本モデルを使用したことで一躍有名になった。

 コマンド―はガラナ工業ブランドで発売されたモデルで、AMT社から発売された当時は、5インチモデルであったが、ガラナ工業から発売されたコマンド―は、ガバメントのフレームに4インチバレルを搭載したモデルである。仕様弾薬は40S&W弾で装弾数は8発である。アクセレーターは400カーボン弾を使用するモデルでジャベリナは10mmオート弾を使用するモデルで、スライドはどちらも7インチである。

 

 

「射程距離400mのプラズマライフルをくれ。。。」

 余談だが、映画『ターミネーター』に登場する銃器であるが、ターミネーターが最初のガンショップで注文した銃は、12ゲージショットガン「オートローダー」、45口径レーザーサイトピストル、射程距離400のプラズマライフル、ウジー9mm銃の4丁であった。

 オートローダーとはフランキ製「スパス12」、ウジー9mm銃とはイスラエル製ウージー短機関銃。45口径レーザーサイトピストルというのがこのハードボーラーであった。そして、ターミネーターが注文した銃の中で唯一欠品していたのが「プラズマライフル」であった。このプラズマライフルという聞きなれない名称のライフルは実在しないライフルで、恐らくターミネーターが未来から送られてくる際にインプットされた情報に誤って1984年には存在しない未来の銃器の情報が入り込んでしまったためであろう。

 

ハードボーラー(トイガン)

 

 トイガンでは、1985年に千代田製作所がマークスマンガバメントターミネーターを発売している。これはエアーコッキング式のエアガンでレーザーサイト型のマガジンにBB弾を入れるものであった。装弾数150発。翌年にはシルバーモデルが発売されている。1988年には東京マルイから固定スライドガスガンのハードボーラーが発売されている。

 1998年には新日本模型からWAのマグナブローバックエンジンを搭載したハードボーラーが発売されている。これは劇中のレーザーサイトまで再現されたモデルであった。その後、WAから非常に完成度の高いハードボーラーが発売されている。ガスガンではこれが最高のものであろう。

 モデルガンでは2001年頃に新日本模型がモデルアップしている。さらに2020年にはBWCがハードボーラーを発売している。高価ではあるがモデルガンとしては最も完成度の高いモデルである。

 

B.W.C限定品 発火モデルガン AMT ハードボーラー ロングスライド

性能

全長 272mm
重量 770g
装弾数 8発

 現在発売されている中で最も完成度の高いモデル。スライドとフレームの仕上げの違いまで再現している程の尋常ではない完成度の高さでである。これは細部に至るまで徹底している。限定30丁とかなりの少量生産品であるが、値段が値段なので判断は慎重にしなければならない。

 

まとめ

 

 AMT社がハードボーラーを発売したのは1977年、コルトM1911の特許はサブマリン特許という裏技を使用したため1986年までコルト社が特許を保持していた。このためこのハードボーラーはまだ特許をコルト社が持っていた時代に特許料を払って製造したものなのであろう。

 1970年代は、未だに銃を全てステンレスで製造することは珍しく(恐らくオートマグのみ)、錆びにくいオールステンレス製のM1911は人気があっただろうことは想像できる。オールステンレス製7インチ銃身を持つハードボーラーの近未来的な外観は未来から来た殺人兵器が使うには相応しいデザインであったのだろう。

 

 

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01_太平洋戦争
(画像はwikipediaより転載)

 

おすすめ本5冊

 

生出寿『勝つ司令部 負ける司令部』

 本屋にいったらあったので何となく購入。著者は海軍兵学校74期生の海軍士官。74期なので恐らく実戦は経験していない。本書は日露戦争当時の連合艦隊司令部と太平洋戦争時の連合艦隊司令部を比較したもの。東郷平八郎と比較して山本五十六がどれだけ駄目だったのかという内容。著者がかなり山本五十六を嫌っているのが分かる。

 確かに山本五十六が実戦指揮官として能力が高かったのかと言われれば微妙ではあるが、さすがに厳しすぎるのではないかと感じる。著者は航空機中心の戦略に関しても否定的で戦闘機で防空を万全にして艦砲で敵艦を撃滅するということを主張している。しかしこれは戦闘機の能力を知っている後世の「後出しじゃんけん」という気がしないでもない。

 とにかく山本五十六を徹底的に批判しているが、そもそも数年前から準備して出来る限りのことをやった挙句に開戦した日露戦争と日中戦争で国力が消耗している状態でありながら「空気」で始めた太平洋戦争という時代の条件が違い過ぎる。さすがに山本五十六には少し酷な気がする。

 

 

豊田副武『最後の帝国海軍』

 帝国海軍最後の軍令部総長であった豊田副武大将の回想記。全体的に言い訳に終始している感はある。戦前の戦艦大和の建造に対しての批判に対して、航空機を大量生産したところで物量では勝てない故に質で勝負するという発想だった等、興味深い話もある。

 対米戦争は海軍は勝てないと明確に言わなかった及川海軍大臣を痛烈に批判しているが、自身も連合艦隊司令長官だった時代に「勝ち目がないとは立場上言えない」と及川大臣と同じことをしてしまっていたり、終戦時に徹底抗戦を主張したのは徹底抗戦派の軍人たちを暴発させないためであったが実は終戦を願っていたという趣旨のことを発言しているがさすがにちょっと情けなく感じた。

 結局、米内光政大将は理解してくれなかったと不満を漏らしているが戦前に命がけで三国同盟を阻止しようとした米内からしてみれば仮に豊田大将の言葉通りだったとしても理解することはなかっただろうと思う。世界三大海軍の一つであった日本の終戦時の海軍の頂点にいた人間がどのような人であったのかを知る貴重な記録ではある。

 

 

猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』

 戦前に存在した総力戦研究所のノンフィクション。太平洋戦争開戦前に将来を嘱望されている有能な官僚が各省から集められた。彼らはデータを駆使して合理的に対米戦のシミュレーションを行った。驚いたことにその分析は、原爆の使用を除いてはほぼその後の歴史を正確に見通していた。

 しかし開戦を求める「空気」に支配された日本、東条首相の「戦というのは計画通りにはいかない。意外裡なことが勝利につながっていく」と総力戦研究所の分析結果を否定、開戦に踏み切っていく。日中戦争を戦っている上に対英米戦争を行うというかなり非常識な決断を行った当時のトップエリートたちの内側が分かって興味深い。

 

 

 

藤田信雄『わが米本土爆撃』

 あまり知られていないが太平洋戦争中に米本土を爆撃した唯一のパイロットの記録。著者の藤田信雄氏はかなり筆まめな性格で細かく日記をつけていた。その日記を抜粋して書籍化したもの。藤田氏は開戦時にすでに実戦経験を積んだ超ベテランパイロットであった。太平洋戦争開戦時には潜水艦搭載水偵「潜偵」の操縦員として実戦に参加する。

 この潜偵に目を付けた海軍上層部はドーリットル隊の日本空襲の報復として米国の森林地帯への爆撃を潜偵で行うことを計画する。ベテランである藤田氏は2度も米本土爆撃を無事に成功させた。しかし米国の実際の損害はほぼ皆無であり、戦略的にも戦術的にも効果は無かった。このような確実に無意味である「報復」作戦に貴重な潜水艦と熟練搭乗員を危険に晒す日本海軍とは如何なものかとつい考えてしまう。やはり日本は「情」の国なのだろう。

 

 

猪瀬直樹『ピカレスク』

 戦争関係とは全く関係のない一冊。太宰治とは明治生まれで戦争を挟んだ時期に活躍した作家。『人間失格』等で有名である。太宰治を分析した本は把握できない程あるが、それらはどれも太宰の小説を分析したものである。本書の著者である猪瀬直樹氏は小説を分析するという従来の方法を使用せずに徹底的な調査を基に本当の太宰治に迫る。

 その結論として、太宰治は本気で自殺する気はなく、ひたすらに偽装自殺を繰り返していたというもの。しかしそれを以て太宰治が「偽物」ということにはならない。作家が自ら死のギリギリの線まで行き、その体験を小説にする。むしろ小説家としての凄まじい生き様が感じられる。物書きとしての凄みを感じる。

 

 

 

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01_景雲
(画像はwikipediaより転載)

 

 陸上偵察機景雲とは、日本海軍の陸上偵察機である。陸偵の重要性は訴えられていたが、それまでは九八陸偵、二式陸偵、百式司偵と転用してきた海軍が初めて専用の陸偵として開発した唯一の機体で、エンジンは液冷ハ70を胴体中央に配置する等意欲的な機体であった。1942年に開発が開始、1945年5月に初飛行するが生産されることなく終戦となった。景雲改としてジェット機化の計画もあった。

 

陸上偵察機 景雲 〜概要〜

 

 

性能

全幅 14.00m
全長 13.05m
全高 4.24m
自重 6,015kg
最大速度 741km/h(高度10,000m)
上昇力 10,000mまで21分00秒
上昇限度 11,700m
エンジン出力 3,400馬力(ハ70)1基
航続距離 3,611km
乗員 3名
武装 なし
爆装 なし
設計・開発 大築志夫 油井一 / 空技廠

 

海軍陸上偵察機の流れ

 海軍は洋上での活動が主であるため陸上偵察機に関してはほとんど関心を持たなかったが、1938年になると陸上偵察機の必要性が主張されるようになる。早速同年には十三試高速陸上偵察機の開発が計画されるが、陸軍の九七式司令部偵察機を海軍用に改造して使用することが決定したために開発中止となる。この陸偵が1939年11月に制式採用となった九八式陸上偵察機で、これは陸軍の九七式司偵のエンジンを瑞星12型(780馬力)に換装した機体であった。

 この九八陸偵は戦闘機隊を中心に配備され、日中戦争から太平洋戦争開戦後まで縦横無尽に活躍する。この九八陸偵の後継機として十五試陸上偵察機の開発が計画されるが、結局発注されずに終わっている。代わりに後継機として制式採用されたのが十三試双発戦闘機を転用した二式陸上偵察機である。同時に一部部隊では陸軍の百式司偵を譲り受けて使用している。

 1942年、次期陸上偵察機として十七試陸偵が海軍航空技術廠(空技廠)に発注された。空技廠では大築志夫技術少佐を設計主務者として開発を開始したが、性能面で用兵側との折り合いがつかず、長距離偵察機的な性格を持つ十七試陸偵の必要性が薄れてきたこともあり計画は中止された。長距離偵察任務の必要性は薄れてはいたが、局地偵察機の必要性は高く、1943年、改めて空技廠に十八試陸上偵察機景雲として開発が指示された。

 

開発

 十八試陸上偵察機景雲(R2Y)の開発を指示された空技廠は十七試陸偵の設計主務者であった大築少佐を設計主務者として開発を開始したが、戦局の悪化に伴って試作機の整理の対象とされてしまった。数ヶ月後の1945年春、この景雲をジェット機化した景雲改の計画が持ち上がったため景雲の開発が再開される。開始時の設計主務者大築少佐は転出してしまったため、油井一技術少佐を設計主務者として開発を再開した。計画が中断された時点では設計はほぼ完了しており、試作機も6号機までが製作中の状態のままで放置されていたため、1945年4月末には試作1号機が完成した。

 形状は独特で、葉巻型の胴体の先端に操縦席、その後方両側に偵察席、通信士席が並び、さらに後方胴体中央部にエンジンが配置されるというものであった。エンジンは液冷熱田30型を2基並列に並べたハ70/01型(3,400馬力)エンジンで3.9mの延長軸によって先端のプロペラを回転させるという機構であった。プロペラは当初は二重反転プロペラが予定されていたが、実用化できる見込みが薄かったため直径3.8mの定速6翅プロペラに変更された。この構造から外観的には、主翼は操縦席の後方に位置する現在のジェット機に近い形状となり操縦席の視界は非常に良好であった。

 初飛行は1945年5月27日で、さらに29日には第2回目の飛行が行われ、低空を10分ほど飛行したが、エンジン室で火災が発生したため緊急着陸をした。第3回目の飛行も予定されていたが改修・修理中に終戦となった。終戦直後に爆破してしまったため本機は現存していない。

 

景雲改(R2Y2)

 エンジンを三菱重工で開発中のネ330を2基並列に搭載した型でのちのF86セイバーのように機首に空気取入口を設ける予定であった。計画値は最高速度741km/h(高度10,000m)、783km/h(高度6,000m)で、上昇時間は6,000mまで7分、実用上昇限度は10,500m、航続距離1,269kmであった。ネ330が実用化しなかったため計画のみで終わった。

 

生産数

 試作1機のみ。

 

まとめ

 

 陸上偵察機景雲は、太平洋戦争開戦後に計画され終戦間際に初飛行をした試作機であった。例によって海軍の性能要求は過大であり、十七試陸偵の性能要求では与圧気密室装備、最高速度667km/h、巡航速度463km/h、航続距離7,408kmであった。この要求の無謀さは一式陸攻22型の最高速度が437km/h、航続距離6,060kmであることを考えると、一式陸攻の最高速度以上の巡航速度で一式陸攻以上の航続距離を得ようという常軌を逸したものであることが分かると思う。このためか景雲の設計は難航してついに飛行2回で終戦を迎えることとなった。

 

 

 

 

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01_44口径ハンドエジェクター
(画像はwikipediaより転載)

 

超要約

 

 S&W初のスイングアウト方式のリボルバーでS&Wリボルバーの基本型となっただけでなく、その後の世界のリボルバーに大きな影響を与えた名作中の名作である。38口径モデルはのちにM10ミリタリー&ポリスと呼ばれ3世紀にわたって世界中で使用されている。

 

S&Wハンドエジェクター

 

 

32口径ハンドエジェクター

 1896年、S&W初のトップブレイク方式でない装填方式を採用したリボルバーである32口径ハンドエジェクターが発売された。それまでのトップブレイク形式のものはフレームの強度が今ひとつのため強力なカートリッジを発射することが難しい。そこでS&Wはシリンダーを銃の左側に開けるスイングアウト構造を発明した。これにより射手は手動で排出(hand ejected)できる訳だ。この設計は素晴らしく、この基本設計はS&Wだけでなく多くの銃器メーカーによって継承されている。S&W社の最も重要な功績である。

 この新規に開発されたIフレームを採用した32口径のスイングアウト式リボルバーの最初期モデルは、1903年まで7年間で19,712挺製造された。装弾数は6発で口径は3.25インチ、4.25インチで極少数6インチモデルが製造された。商業的にはあまり成功しなかったが、フィラデルフィアを始め数か所の警察が採用している。

 1903年になると32口径ハンドエジェクターの改良型が発売される。内部構造が大幅に変更されており、特にシリンダーストップがフレーム上部から下部に移動した。このモデルは数度大掛かりな改良を施され、現在のS&Wリボルバーとほぼ同じ機構に到達した。1917年まで生産が続いた。総生産数は凡そ263,000挺である。

 さらに1917年になると暴発防止のためのハンマーブロックメカニズムが組み込まれるようになる。そしてグリップはそれまでのラウンドバットグリップと共に新しくスクエアバットグリップが採用された。1942年まで273,684挺が製造された。ここで一時生産は中止されるが、1949年になると生産を再開、この時にハンマーブロックメカニズムが改良されている。1960年まで176,269挺が製造された。

 

38ハンドエジェクター(1stモデル)

 1899年に発売された最初のKフレームリボルバーである。同時に開発された38S&Wスペシャルを使用する初のハンドガンである。この38スペシャルはのちに最も人気のあるリボルバーカートリッジとなった。バリエーションは4インチ、5インチ、6インチ、6.5インチの5種類でブルースチールとニッケルメッキの2種類があった。ミリタリー&ポリスと呼ばれ、のちにM10の番号を振られることになる。様々なにバリエーションが存在する。総生産数は1942年までで約100万丁。

 

 

 

44口径ニューセンチュリー(通称トリプルロック、1stモデル)

 1908年に44口径ロシア弾のカートリッジケースを延長した44S&Wスペシャルを使用するニューセンチュリーをラインナップした。これは新たに設計されたNフレーム(当時は44フレームと呼称)を使用するモデルでエジェクターロッドシュラウド、トリプルロックが追加されたモデルで他にも数種類の口径のバリエーションが存在する。

 トリプルロックとは、シリンダーを固定するためにエジェクターロッド、シリンダー後部の他にヨークとエジェクターロッドシュラウド下部にもロックする装置が装備されている。1915年まで製造され、455ウェブリー弾を使用する英軍仕様「マーク汽魯鵐疋┘献Дター」5,000挺も含め、総生産数15,376挺である。

 この44口径ハンドエジェクターで新しく採用されたエジェクターロッドシュラウドとトリプルロックは、2rdモデルでは廃止されてしまう。理由は、どちらも泥が入り込み作動不良の原因となるというもので、特にトリプルロックは構造が複雑であり製造コストが高騰するというのも理由であった。この結果、販売価格を21ドルから19ドルに下げることに成功した。1915〜1940年まで製造され、英軍仕様の「マーク競魯鵐疋┘献Дター」69,755挺を含め、総生産数は74,755挺。

 1926年になると再びエジェクターロッドシュラウドのみが追加されたモデルが発売される。トリプルロックは実用性が無いと判断され復活はしなかった。1941年まで製造されたものの、カタログ販売のみであったため総生産数はわずか4,976挺のみ。

 1950年、44口径ハンドエジェクター最後のモデルが発売された。トリガー、ハンマーの設計を変更しており、バリエーションは、ミリタリー、ターゲットの二種類がある。ターゲットはバレル上部にフルリブを設置しており、これはのちのS&Wリボルバーに多く継承されている。1957年からはターゲットモデルはM24と呼ばれる。1950〜1957年まで製造された。

 

その他

 他にも様々な口径のハンドエジェクターが製造されているが、特に1902年から1921年まで製造されたMフレームを使用する22口径(22S&Wカートリッジ=22LR)モデルは、「レディスミス」と呼ばれた。この名称は1990年に9mmセミオートモデル、さらにJフレームモデルに再度使用されることになる。

 

 

 

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01_M39
(画像はwikipediaより転載)

 

 S&W M39とは、S&W社が1954年に開発、1955年に発売したS&W初のダブルアクションオートであった。このM39をベースにダブルカラム弾倉に改良したM59、38スペシャル弾を使用するM52、45口径化したM645等様々なバリエーションが誕生している。日本ではモデルガンがMGC、マルシンによって1980年前後に立て続けにモデルアップされている。

 

M39(実銃)

 

 

性能

全長 192mm
重量 780g
口径 9mm
使用弾薬 9mmパラベラム弾
装弾数 8発
設計・開発 S&W社

 

概要

 M39は1954年に発売されたS&W初のダブルアクション拳銃で以後の同社のピストルの基本となった。口径は9mmでシングルカラムマガジンを採用している。機構はワルサーP38を踏襲しており、スライドにあるマニュアルセイフティはその名残である。無論デコッキング機能もある。その他、ショートリコイル機構やマガジンセイフティはブローニングの設計の影響が見られる。マガジンキャッチは米国式のトリガー後方に配置される形式で、材質は軽量なアルミフレームを採用したことから他社の同クラスの拳銃よりも軽量化に成功した。 

 しかし米国では45口径が主流であり、厳しい状態に置かれたこともあったが1980年にS&Wオートが第二世代に移行するまで生産された。欠点としてはシングルカラムマガジンにしてはグリップが太く握り心地は良くないことが挙げられる。

 アメリカ海軍特殊部隊SEALでも使用されていたようで専用のサプレッサーを装着できるモデルがMK22Mod0として正式採用されていた。バリエーションとしてはシングルアクションモデルのM44、38スペシャル弾を使用できるようにしたM52等がある。M39とは、要するに「特徴が無いのが特徴」だといえる。S&WのオートがM&P中心になるまでの間、S&Wオートの基本となり続けたモデルなので機構の信頼性と拡張性の高さはタイムプルーフされているといえる。

 しかし概略にも書いたようにあまりオリジナリティーがあるモデルとは言えないが、性能が良ければいいのだ。銃は。そのように考えるとこのM39は非常にバランスが取れている銃のようだ。ただ唯一の問題はシングルカラムマガジンだということだろう。現在ではちょっと厳しい。このシングルカラムマガジンをダブルに変更したのがM59である。

 因みにこのシリーズは後にファーストジェネレーションと呼ばれる世代でナンバーが2ケタのモデルだ。セカンドジェネレーションは3ケタ、サードジェネレーションは4ケタになる。

 

M39(トイガン)

 

 モデルガンでは、1979年にMGCがM39、1980年にマルシンがM39とM439を発売しており、1981年にはMGCがシルバーモデルのM39を発売している。MGC製はMGCが廃業してしまったため現在では入手は困難であるが、マルシン製は入手可能である。エアガンでは1991年にポイントがエアーコッキング式のエアガンを販売したのみである。

 

モデルガン マルシン S&W M39 ABS2層ブラックメッキ

性能

全長 194mm
重量 480g
装弾数 8発

 現在発売されている唯一のM39モデルガン。今ではあまり人気の無いモデルなので今後、新規でモデルガン化される可能性は低い。ブラックメッキ、HWモデルがある。スポット生産されているようなので発売された時が購入のチャンス。作動は昔ほどひどくはないはずだが、少ない火薬で作動させるのがモデルガンなので作動に100%を求めてはいけない。

 

まとめ

 

 M39は、ヨーロピアンオートを良く取り入れた奇をてらわない設計である。現在ではダブルカラムマガジンがスタンダードなので装弾数こそ物足りないが安定した設計のトラディショナルなオートマチックハンドガンである。日本では1980年前後に複数のメーカーによってモデルアップされており、さらにMGC廃業後もHW製のM39がタイトーブランドで発売されていたこともある。古いファンにとっては懐かしい拳銃であろう。

 

 

 

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01_マテバ2006M
(画像はwikipediaより転載)

 

 マテバ2006Mとは、イタリアのマテバ社が1990年に発表したリボルバーである。最大の特徴は銃身がシリンダーの下部に位置しており、シリンダー下部のカートリッジが発射される構造になっている。このため反動が非常に低く抑えられ、トリガーもスムーズであるため命中精度は高い。

 

マテバ2006M(実銃)

 

 

性能(4インチ)

全長 187mm
重量 1,070g
口径 38口径
使用弾薬 357マグナム弾、38スペシャル弾
装弾数 6発
設計・開発 エミリオ・ギゾーニ / マテバ社

 

開発

 1985年、イタリアマテバ社の設計主任エミリオ・ギゾーニによって設計開始、1990年より発売されたリボルバーである。最大の特徴は通常のリボルバーは、回転するシリンダー最上部に装填されているカートリッジから順番に発射されるが、このマテバ最下部にあるカートリッジから発射される。このようにすることでカートリッジは銃を握っている手に近い位置で発射されるため銃が跳ね上がるのを防ぐことができると考え設計されたものである。

 さらに銃身上部には反動の軽減のためバレルウェイトが設置されており、追加でウェイトを装着することも可能である。このため反動は非常に低く抑えられており、357マグナムの反動は9mm弾程度、38スペシャル弾の反動は22口径程度とまで言われている。トリガーは非常にスムーズで重さを調整することも可能である。

 欠点としては、銃身とサイトが離れてしまったため照準軸と射線軸の幅が大きく命中精度にも悪い影響を与えていることや、シリンダーストップのスプリングが強すぎるためシリンダーを傷付け、同時にシリンダーストップの摩耗も激しくなることが挙げられる。これに対してはシリンダーにビニールテープを貼ることで対応しているユーザーもいる。

 独特の形状でありシリンダーのスイングアウトも上部に回転するため通常のリボルバーに慣れた射手には使い勝手が悪いが、コレクターズアイテムとして人気が高い。グリップと銃身はユーザーが自身で交換することが可能でグリップは4種類、2インチから6インチまで8種類の銃身が用意されている。のちに7連発仕様の2007M、44マグナム仕様が発売されている。

 

マテバ2006M(トイガン)

 

概要

 マテバはマルシン工業からガスガンで発売されているのが唯一のモデルアップである。8mmBB弾モデルと6mm弾モデルがあり、現在は6mm弾モデルのみである。材質はABS、HW、シルバーモデル、ディープブラックモデルが発売されている。

 

マルシン マテバリボルバー/6mm/X/SV/4インチ/ブナ製木グリ

性能

全長 265mm
重量 860g
装弾数 6発

 マルシン製ガスリボルバー。6mm弾モデル。初速はバレル長によって異なるが60〜80m/s前後である。命中精度は決して良くないが、外観の完成度の高さは秀逸。特に木製グリップの出来の良さは素晴らしい。欠点としては、命中精度が悪いこととガス漏れが指摘されている。現行ロッドはどうなのかは分からないが、購入時には確認することをお勧めする。余談だが、フリーダムアートから散弾カートが発売されている最大6発を1発のカートに装填して一度に発射することが出来るものでもちろん弾数が増えればパワーは弱まるが面白い。

 

 

まとめ

 

 マテバ2006Mは、外観から「色物」的な位置づけでみられることが多いが、実銃は独特の形状であるため慣れが必要であるが、命中精度は非常に高く反動の少ない銃である。但し、構造上、本体が大型になってしまい取り回しがしにくいという点はある。ユーザーによっては名銃と評価も高い。

 

 

 

 

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