トイレで読む向けブログ

全国のトイレ人よ立ち上がれ! 〜 since 2005 〜

01_M500
(画像はM500とM629 wikipediaより転載)

 

 S&WM500は、2003年に発売され、商業的には大成功を収めたモデルだ。現在発売されているハンドガンの中では最も強力な弾丸を使用するもののようだ。新設計のXフレームを使用することで、44マグナムの3倍の威力を持つ500マグナムを発射できる。

 

S&WM500(実銃)

 

 

性能(8.38インチ)

全長 381mm
重量 2,036g
口径 50口径
使用弾薬 500S&Wマグナム弾
装弾数 5発
設計・開発 S&W社

 

開発

 M500は、2003年に発売された500マグナムカートリッジを使用する超大型リボルバーである。500マグナムもこのM500用に開発されたものでカートリッジのあまりの威力のため専用のフレームであるXフレームが開発された。シリンダーはNフレームの質量の2倍に相当するものでチタン合金製である。フレームはアルミニウムスカンジウム合金製で装弾数も通常の6発だとシリンダーが圧力に耐えられなくなるので5発とした。銃身下にはアンダーラグ、さらに大型のコンペンセイターに専用ラバーグリップと反動を極力軽減する工夫が施されている。

 バリエーションは、2.75インチ、3.5インチ、4インチ、6.5インチ、7.5インチ、8.38インチとS&Wパフォーマンスセンター製の10.5インチモデルがある。M500に4インチ等の短銃身モデルが存在する理由は主に重量である。M500は、米国ではコレクションとして保有していることが多いようであるが、実際にハンティング時の護身用として携行することを想定すると2,036gにもなる8.38インチを携行するのはかなり厳しい。

 これに対して4インチモデルの重量は1,593gとM29の6.5インチモデルよりも100g程重い程度であり体に対する負担は少ない。このため短銃身モデルが存在する。しかしパワーは銃身の長さに影響されるので短銃身の場合、威力は低くなるもののハンターの護身用としては十分に威力を発揮する。

 

S&WM500(トイガン)

 

概要

 トイガンで発売しているのはモデルガン、ガスガン共にタナカワークスのみである。モデルガンの完成度は高く、HWにメッキ仕上げをしたジュピターフィニッシュのリアリティは素晴らしい。ほぼ全銃身サイズがバリエーション展開されている。全長265mm、重量878g、装弾数16発。ペガサスシステム内蔵のガスガン。カート式ではないが、シリンダーはスイングアウト可能。命中精度はリボルバーにしては比較的高い。外観の完成度は秀逸である。メッキはジュピターフィニッシュで実銃のような深みがある。実銃の性格から考えてもサバイバルゲーム等で使用するよりも室内でのシューティング、観賞用という目的で使用するのが良さそうだ。

 

まとめ

 

 1956年、世界で最も強力なカートリッジを使用するM29を発売したS&Wが2003年に再び世界で最も強力なカートリッジを発売した。商業的には大成功でS&Wは経営的にもブランドイメージ的にも復活を遂げた。大口径ハンドガンは日本のファンだけでなく米国人にもファンが多いようだ。

 

↓良かったらクリックして下さい。

ミリタリーランキング

01_スピットファイア
(画像はwikipediaより転載)

 

ポートダーウィン空襲

 

ジークは右上方に急旋回をして攻撃を回避したあとあと(ママ)降下した。私もそのあとを追って急降下を行ない、300ヤード(274.3メートル)付近から3分の2秒の連射を行なった。そのままでは攻撃を受けることが予期されていたため、右に急旋回する回避行動をとったのち、ジークの動きを見るために左に旋回した。さらにそのジークを追って急降下を続けると、5,000フィート(1,524メートル)付近で敵機から白い煙が上がり始め、相手はそのまま地上に墜落炎上した。
クリステンアレキサンダー『キラーと呼ばれた男』P215

 

オーストラリア空軍のトップエース、コールドウェル大佐

 これは1943年6月30日、日本海軍航空隊とオーストラリア空軍の戦闘に参加したオーストラリア空軍のエースパイロット、コールドウェル大佐が日本の戦闘機ジーク(零戦)を撃墜した記録である。コールドウェル大佐とは、オーストラリア空軍史上最高の敵機を撃墜したエースで総撃墜数は27.5機にもなる。1910年シドニーで生まれた。30歳の時に年齢を偽り空軍に入隊、翌年少尉に任官した。天性の才能があったようでわずか157時間の飛行時間で実戦に参加、1ヶ月半後にはドイツ空軍のBf109を撃墜して初戦果を挙げた。

 オーストラリア空軍は実力主義であったようで、実績を挙げたコールドウェル少尉はトントン拍子に出世、わずか4年で第11航空団司令に任命され、階級も中佐となる(秦P97)。英国の名機スピットファイアで編成されたこの飛行隊はポートダーウィンに展開、日本空軍と対峙することになる。

 これに対する日本空軍戦闘機隊は、主に海軍の202空で太平洋戦争開戦と同時に台南空と共に比島で航空撃滅戦を展開、南方作戦を終了した後、チモール島に展開していた部隊である。台南空以上にベテランが揃えられていた部隊で赤松貞明中尉や横山保中佐等が在籍していた部隊でもある。海軍航空隊の中でも特にベテランが多い精鋭部隊であった。6月30日の空襲時の202空の指揮官は鈴木實少佐でこれまた日中戦争以来のベテランであった。爆撃機隊は主に陸攻部隊である753空で、一時的に陸軍の戦闘機隊である飛行第59戦隊、爆撃機隊である61戦隊も参加している。

 この空戦の結果、スピットファイア隊は6機が撃墜されたものの、敵戦闘機3機、爆撃機4機を撃墜、不確実撃墜4機を報告している。6機の損失を出したものの、7機(資料によっては8機)を撃墜しているのでスピットファイア隊としては互角の戦いであったといってよい。コールドウェル大佐自身はこの空戦で零戦1機を撃墜し撃墜数は26.5機となった。

 

 

日本側から見てみると。。。

 ここで日本側からこの空戦を見てみたい。6月30日の空襲の目標は内陸に位置するブロックスクリーク基地で、ここには米軍の新鋭爆撃機B24が大量に配備されていた。航続距離3,540kmという性能を誇るB24を地上で破壊するのが作戦の目的である。しかしブロックスクリークは内陸に位置するため攻撃には非常な危険が伴う。このため戦闘機隊の指揮官鈴木實中佐は、6月30日の出撃に関しては特に熟練搭乗員を選んでいた。日本海軍の搭乗員は下士官が一番練度が高い。今回の編成は下士官と下士官からの叩き上げである准士官のみで編成され、唯一の士官である鈴木中佐が指揮官となるという特異な編成で行われた(神立P247)。

 鈴木隊長に率いられた202空零戦隊27機と754空の一式陸攻24機は一路ブロックスクリークに向かう。これに対してコールドウェル大佐率いるスピットファイア38機が激撃に上がった。ここに空戦の火ぶたが切って落とされた。この空戦は予想通りの激烈な空戦となり、百戦錬磨の指揮官である鈴木中佐ですら自分の身を守るのが精いっぱいであったようだ。空戦が終わり基地に帰還してみると出撃27機中帰還したのは25機であった。しかししばらくするともう2機も帰還。全機無事に帰還したのだった。しかも陸攻隊にも2名が機上戦死したものの撃墜された機は無かった。

 

 

撃墜された零戦は1機もない

 そう、実は冒頭のあの精緻な空戦の様子。間違いなのだ。6月30日の空戦では日本側に損害は1機もない。故にあの煙を噴きながら地上に激突した零戦というのは存在しないのだ。しかしこれはコールドウェル大佐が問題なのではない。コールドウェル大佐率いるスピットファイア隊の空戦技術が高かったことは当の鈴木中佐も認めているし、コールドウェル大佐の撃墜戦果も確認されたているものも多い。この空戦では日本側もスピットファイア13機の撃墜を報告しているが、実際に撃墜したのは先ほども書いたように6機のみだ。

 よく「何十機撃墜のエース」というようなものがあるが、実際には本当に撃墜していたのかは誰にも分からない。台南空のエースパイロットである坂井三郎氏に言わせると「戦果報告というのは、まずそのほとんどが誤認」だそうだ(梅本P2)。実際、坂井氏が参加した1942年8月7日の空戦では台南空と米海軍戦闘機隊が激突した結果、台南空は撃墜40機を報告したものの実際撃墜したのは12機であった。戦果が3倍以上に膨らんでいるのだ。当時の台南空の精鋭を以てしてもこれほどの誤認戦果が出るのだ。

 そして彼我の搭乗員の練度が低下してくる上に混戦となってくる太平洋戦争後期の空戦では戦果報告と実際の戦果の差はさらに激しくなる。1943年7月17日、つまりは今回のブロックスクリーク攻撃の翌月行われたブイン基地での迎撃戦では海軍航空隊は45機の撃墜を報告しているが、実際に撃墜していたのは6機、同年11月11日に行われたラバウル迎撃戦では海軍航空隊は71機の撃墜を報告しているものの実際に撃墜したのは7機のみであった(⊃P305,306)。これは報告と実数の極端な乖離があったものを抽出したのだが、それ以外の空戦をみても、平均的に戦果は3倍程度は膨らんでしまうようだ。空戦での戦果確認というのはそれほど難しいものなのだ。

 

 

コールドウェル大佐は零戦を1機も撃墜したことがない?

 コールドウェル大佐が生涯で撃墜した航空機は合計で27.5機。28.5機という資料もあるようだが、27.5機というのが正解のようだ(クリステンP327)。この中でコールドウェル大佐は7機の日本機を撃墜している。その内訳は、零戦4機、一式戦闘機1機、九七式艦攻1機、百式司偵1機で、日時を書くと1943年3月2日に零戦1機、九七式艦攻1機撃墜、5月2日に零戦2機撃墜、6月20日に一式戦闘機1機撃墜、6月30日に零戦1機撃墜、8月17日に百式司偵1機の撃墜を報告している。

 実はこの戦果の内、零戦4機撃墜は全て誤認である。6月30日については前述したが、3月2日、5月2日の空戦でも零戦隊は全機帰還しており、日本側に損害の報告はない。そして6月20日の空戦の一式戦闘機1機の撃墜であるが、これは対戦した陸軍の59戦隊に一式戦闘機1機の未帰還が報告されているのでこれが該当するとも思われるが(秦P383)、オーストラリア空軍はこの空戦で零戦5機(一式戦闘機を零戦と誤認している)の撃墜を報告しているので実際にこの一式戦闘機を撃墜したのが誰なのかは不明である。

 8月17日の百式司偵1機は、202空の田中富彦飛曹長、河原眞治上飛曹機で撃墜が確認されている。以上を総合するとコールドウェル大佐の日本軍に対する戦果は、百式司偵1機、九七式艦攻1機の合計2機、さらに一式戦闘機1機を撃墜した可能性があるというところだろう。ただ、3月2日の九七式艦攻であるが、これはオーストラリア空軍の情報将校がパイロットの証言を集めて九七式艦攻と「判断」しているだけなので、実際にはどこの部隊のどの飛行機なのかは謎である。

 

 

ともあれ。。。

 実戦は命がけである。空戦で相手の撃墜を確認している余裕はない。特に第二次世界大戦では編隊空戦が主流となり、混戦となる場合が多い。日中戦争での零戦初空戦のような最新鋭機を使った一方的な戦いにおいてでも実際の戦果が13機撃墜であるのに対して27機撃墜を報告している。故にコールドウェル大佐の撃墜数が実数と異なることによってコールドウェル大佐が「偽物」である訳ではない。彼は飛行時間も1,200時間近く、隊長としても人望を集めた優秀なパイロットであったのだ。

 「敵機を撃墜」といってもその中には人間が乗っている。敵機を撃墜するということは多くの場合、中の人間を殺戮することでもある。コールドウェル大佐は、現役時代にこれらのことに対して割り切っており、無関心を決め込んでいた。兵隊としては当然のことだ。さらにコールドウェル大佐はパラシュートで脱出した敵パイロットも射殺するという冷酷さを示した。この結果、付いたニックネームは「殺し屋」で、当初は自称もしていたニックネームであったが、晩年になると毛嫌いするようになっていく(クリステンP20)。徐々に「殺戮をした」ことに対して無関心ではいられなくなってきたのだ。

 さらに最晩年になると撃墜した搭乗員の遺族からの面会も拒否(遺族は許している)、撃墜した敵パイロットの話になると涙声になっていたという。オーストラリア空軍のトップエースコールドウェル大佐の「スコア」は実際にはもっと少ない。少なくとも零戦4機の撃墜は完全な誤認だ。英雄を求める人々にとっては残念なことであろうが、故コールドウェル大佐にとっては朗報かもしれない。自身が撃墜、すなわち殺戮したと思っていたのは間違いで、敵パイロットは死んでいなかったのだ。

 

参考文献

  1. クリステン・アレキサンダー『キラーと呼ばれた男』 津雲 2011年
  2. /前衂А愨2次大戦世界の戦闘機隊付・エース列伝』 酣燈社 1987年
  3. 神立尚紀『祖父たちの零戦』講談社 2013年
  4. 梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記』1巻 大日本絵画 2011年
  5. ⊃前衂А愼本海軍戦闘機隊 付エース列伝』酣燈社 1975年
  6. 秦郁彦『日本陸軍戦闘機隊 付エース列伝』酣燈社 1973年

 

 

 


ミリタリーランキング

004

 

グロックとは。。。

 

グロック社とグロック17

 グロック社とは1963年にオーストリアで創設された武器製造会社で、1963年というのは銃器メーカーとしては比較的新しい会社の部類に入る。創設からしばらくは機関銃用のベルトリンク(カートリッジを連結する金具)やナイフ、シャベル等を製造しているメーカーであった。ところが1980年、オーストリア軍の制式拳銃トライアルによってこのグロック社の名前は全世界に知られることとなる。グロック社の創設者ガストン・グロックは、銃器製造の経験が全くないにも関わらず、温めていたアイディアを搭載したハンドガンを開発。これをトライアルに提出したのだ。

 1983年、驚いたことに何の実績もないグロック社の提出したハンドガンが「P80」としてオーストリア軍に制式採用されてしまったのだ。「良ければ採用する」こういう柔軟な組織は強い。それはともかく、1985年にはグロック社はP80を商品名「グロック17」として北米で発売、爆発的なヒットとなった。この銃の登場が銃器業界に与えた衝撃たるや尋常なものではなかったのだ。

 このグロック17は数々の画期的な構造を採用していた。まずはポリマーフレーム。「銃は金属」という常識をぶち壊したこのポリマーフレームはその名の通りプラスチック製のフレームである。握りやすく成形されたフレームに金属製のスライド、撃鉄はストライカー方式の改良型でサムセイフティは無く、代わりにトリガーセイフティが装備されている。トリガーセイフティは引き金を引くと自然に解除されるために安全であるのと同時にいざというときにすぐに射撃可能である。

 

 

40S&W弾という奇跡

 KSCがモデルアップしたのはこのグロック17のバリエーションであるG23である。G23とはG19の40S&W弾仕様である。グロック19とはグロック17のコンパクトモデルである。40S&W弾とはまた聞きなれないカートリッジではあるが、実はこのカートリッジは理想的な性能を持つカートリッジだと言われている。世の中の自動拳銃のカートリッジには9mm弾と45ACP弾という二大潮流がある。どちらも長所と同時に欠点を備えている。まあ、これは当たり前の話だ。

 45ACP弾は大口径。20世紀初頭に米国で開発されたカートリッジで高威力であり、反動は強いもののストッピングパワー(破壊力)に関しては全く問題ない。しかしカートリッジが大きすぎるために装弾数がどうしても少なくなってしまうという欠点がある。これに対して9mm弾は同じく20世紀初頭にドイツで開発されたカートリッジで、破壊力に関しては45ACP弾に劣るものの、カートリッジの直径が小さいので多弾倉化が可能なのである。ミリに換算すると45ACP弾は11.43mm、9mm弾とは2.43mm直径が大きい。

 「2.43mmなんて大して変わらないじゃないか」と思うかもしれないがそうではない。9mm弾はその直径の小ささゆえに複列弾倉といってカートリッジを交互に二列で弾倉に装填することができ、装弾数はフルサイズのハンドガンで15発前後、グロック17に至っては17発も装弾することができる。これに対して45ACP弾は複列弾倉にしてしまうとどうしても握り心地が悪くなってしまうので単列弾倉ということになる。そうなると装弾数は7〜8発というのがどうしても限界になってしまうのだ。

 わずか2.43mmの差が装弾数になると2倍の違いが出てしまうのだ。実戦で装弾数が2倍違うというのがどれだけ重要なのかというのは敢えて説明する必要はないだろう。んで、そこであることを考えた人がいた「11mmと9mmの間の10mm口径のカートリッジを作ればいいんじゃね?」ということだ。あまりにも普通な考えで仰天してしまうが、出来たカートリッジはさらに仰天してしまうものであった。あまりにも威力が強すぎたのだ。装弾数も多い上に威力は357マグナム並みというバケモノカートリッジが完成してしまったのである。

 銃というのは威力が強ければ強いほどいいという訳ではない。威力が強ければその分反動も強く、弾丸は目標を貫通して後ろの人に当たってしまったりもするのだ。何事も適度なのがよい。そこで10mm弾の威力を弱めたカートリッジ40S&W弾というのが開発されたのだ。40というのは40口径の意味で0.4インチ。つまりは10mmということだ。このカートリッジは割とヒットだった。ちょうどいい感じにアレしていたのだ。パワーも宜しく、装弾数も宜しい。いい感じのアレになった。

 

 だいぶ話が脱線と訳の分からない方向に行ってしまったが、要するにKSCのG23というのはグロック17のコンパクト版で口径は40S&W弾だということだ。そして私の現在の知識ではこのG23が最も実用的なハンドガンであると考えているのだ。これについて以降、少し詳しく書いてみよう。

 

最も理想的な戦闘用ハンドガンはどれか

リボルバー

 ハンドガンには、オートとリボルバーがある。オートは連射性能、装弾数に優れるが、同口径のリボルバーに比べ銃が大型化するというデメリットがある。以前は故障しやすいと言われていたが、現在はこの問題はオートもリボルバーも信頼性に遜色はない。連射性能に関しては、リボルバーの連射はダブルアクションであり、連射するのに重いトリガーを引かなければならず、自動でハンマーをコックしてくれるオートに比べると連射性能は低くなる。装弾数はリボルバーの物理的限界といえる。リボルバーはシリンダーにカートリッジを装填する方式のため、材料工学が発達した現在においても6〜7発が限界だ。もちろん小口径の銃であれば装弾数は増えるが、実戦用ハンドガンとしては意味を為さない。

 リボルバー唯一のメリットと言えるのが、同口径のオートに比べ小型軽量であるということだ。これは、オートは自動で排莢装填を行うため、どうしても機構が複雑になり銃が大型化してしまう。分かり易いのは44マグナム弾を使用するM29とデザートイーグルだが、M29の6.5インチの重量が1.4kgなのに対して、デザートイーグルの重量は1.7kgに達する。4インチモデルになると重量が1.2kg弱で全長24cmに対してデザートイーグルは27cmと大きく差が出る。これに関してはリボルバーの勝ちなのだが、実戦用ハンドガンと考えた場合、このメリットを考えたとしてもやはり装弾数の少なさは致命的といえる。

 

オートマチック

 そうなると、オートになるのだが、ここでまた問題だ。オートといっても様々な弾薬を使用するモデルがある。どの口径がいいのだろうか。まず9mm未満の口径は駄目。威力が無さすぎる。これは実戦経験者から聞いたことなので間違いない。9mm以上ということになるのだが、狩猟をする訳ではないのであまりに強力な弾薬は不要だ。これらから考えて実戦用では9mm以上45口径以下というのが常識的なラインだろう。基本的には世界の実戦部隊が配備しているのは、9mmか45口径のどちらかだが、これらにはそれぞれ長短がある。これは先ほど説明した通りだ。

 結局理想的なのは、40S&W弾ということになり、私の中の理想の実戦用ハンドガンというのは40S&W弾仕様のオートマチックハンドガンということになった。そしてオートで最も評判のいい銃はというと・・・グロックである。とまあ、こんな感じで40口径仕様のグロック23になった訳だ。

 

KSC G23Fの長所

 

006

 

フルオート機能がある

 このようなリアル志向の私であるが、実はこのG23には「F」というモデルは存在しない。ここまで考えて挙句に買ったのが実在しない銃というのは何とも情けない話ではあるが、まあそこはそこ。トイガン等は所詮はアソビなのだ。架空の銃でも良いではないか。私がこの銃が欲しかった理由の一つはこの「F」にある。この「F」とはKSCではフルオート機能を意味する。実は、この銃の最大の特徴は、な、なんとフルオート機能があるのだ。

 んで、またこのフルオートが面白いんだ!ぶおーって弾幕を張れる。装弾数は20数発だったと思うが(私は実銃と同じ13発しか入れないから分らない)、凄まじい快感。まあ、実際サバゲで使うときにはバーストで使うんだろうが。このバーストはかなり強力な武器になると思う。いい感じのパターンで広がっていく。そして2〜3発ずつの発射だからかなりの弾幕となる。相手にとってはかなりの脅威だろう。

 

銃自体が小型で携行性が高い

 これは重要。グロックは小型軽量であり、突起が少ないので服に引っかからない。さらに人間工学に基づいて設計されているので扱いやすい。私の知人で実銃での訓練経験のある人はほとんどがグロック信者だ。

 

命中精度が異常にいい

 さらにセミオートでの命中精度は新型チャンバーのおかげで驚異的に良い。5mで2〜3僂砲禄犬泙襦マルイとタメを張れる。

 

マガジンの気化効率がいい

 これはこのモデルに限ったことではないが、ダブルカラムマガジンは気化効率が良い。ガスガンというのはマガジンに液体のガスが入っている。それを気化させて発射するのだが、これは空間の体積が大きいほど効率が良い。シングルカラムに比べダブルカラムは体積が大きいので気化効率がいいのだ。気化効率が良いと発射時の圧力が安定する。連射にも有利だ。ただ残念なのはフルオート射撃。はやり急激にガス圧が低下するため長時間の連射は難しいのだ。これはフロンガスの宿命と言えるかもしれない。

 

G23Fの欠点

 

583

 

スライドストップによってスライドが削れてしまう

 長所ばかりを書いていても仕方がない。私はKSCの従業員ではない。ここでこのG23Fの欠点について書いてみたい。最大の欠点は、スライドストップだ。KSCは律儀にも実銃と同じ機構のスライドストップを採用している。つまりスライド側の凹部にスライドストップを引っかけるのだ。ここで問題。スライドストップは金属でできている。スライドはプラだ。実銃と同じ仕組みで作れば当然、プラのスライド部分がスライドストップによって削られてしまう。

 他社では、スライド内側に金属のノッチを装着したりして対応しているが、KSCは何もないので削れてしまう。これは痛い!

 

グロックG23Fはシステム7じゃない

 KSCのガスガンの多くは、確か2007年に開発されたシステム7を使用している。しかしこのG23Fには採用されていない。最新システム搭載であって欲しかったのだが、これは仕方ない。残念ではあるが、反動はシャープで鋭い。

 

これが最大の欠点かもセレクターレバーがすぐにニュートラルになってしまう

 G23Fは随分使っているが、服やホルスターにセレクターレバーがちょっと引っかかっただけでレバーがニュートラルになってしまう。ニュートラルになると発射が出来なくなる。戻すにはスライドを引いてセレクターを切り替えなければならない。これはさすがに何とかならないものなのだろうか

 

005

 

 上掲の画像は私がおっかなびっくりスライドが削れないように一年間注意しながら使った結果。注意すれば削れないが注意しなければ削れてしまう。それともう一つの欠点は(私が気になっているだけ)、気に入ったのでずっと持ってたらグリップに塩が吹いてしまった。うーむ、グリップが別パーツじゃないとなぁ。というKSCとは全く関係ない欠点であった。

 

まとめ

 グロックのコンパクトモデルはKSC以外にも数社から発売されている。それらの中で私が敢えてKSC製品を選んだのは、何というか、所有感とでもいうのだろうか。KSCの銃は、持っていてワクワクするのだ。これは多分、重量バランスや細かな作りこみ、エッジや面の出し方というような本当に細かいこだわりの結果だろう。特にG19用マガジンを装着した時のバランスの良さは筆舌に尽くしがたい。KSCのクラフトマンシップに感激するとともにKSCが大好きになってしまったのだった。

 

 

↓良かったらクリックして下さい。

ミリタリーランキング

01_深山
(画像は深山 wikipediaより転載)

 

 超重爆撃機 キ91とは、日本が計画した富嶽に次ぐ超大型爆撃機である。全幅はB29を上回る巨人機であった。計画値通りであれば性能もB29に匹敵するものであったが、戦局の悪化により超重爆の必要性はなくなり開発中止となった。

 

超重爆撃機 キ91 〜概要〜

 

性能(計画値)

全幅 48.0m
全長 33.0m
全高 10,0m
自重 5,800kg
最大速度 580km/h(高度10,000m)
上昇力 8,000mまで20分30秒
上昇限度 13,500m
エンジン出力 2,500馬力4基
航続距離 10,000km(爆弾無し)
武装 20mm連装機関砲4門、20mm4連装機関砲1門
爆装 最大8,000kg
設計・開発 土井武夫 / 川崎航空機

 

開発

 1943年5月、陸軍は、川崎航空機に対して超重爆撃機キ91の試作を命じた。キ91の性能要求は、最大速度が高度10,000mで580km/h、航続距離は爆弾4,000kgを搭載して9,000km、武装は20mm機関砲12門、爆弾の最大搭載量8,000kgという空前のものであった。試作指示を受けた川崎航空機は、土井武夫技師を設計主務者として6月から基礎研究を開始、10月には設計が開始された。高度10,000mでの高性能を実現するためには、与圧キャビン、排気タービン過給器が必要であったが、これは同時期に川崎航空機で試験中であったキ108(キ102戦闘機の高高度戦闘機タイプ)が与圧キャビンを採用予定であることから、キ108で実験を行ったのちキ91で実用化するという方針に決まった。

 計画では、キ91は、全幅48.0m、全長33.0m、全高10.0m、重量5,800kgというB29を超える大きさであり、中島飛行機で設計中の超大型爆撃機富嶽に次ぐ大きさであった。エンジンはハ214ル(陸海軍統合名称ハ42/21型 2,500馬力)で、プロペラは直径4.4m4翅の超大型プロペラであった。武装も強力で、機首、前下方、後上方、後下方には20mm連装機関砲、尾部には20mm4連装機関砲の合計12門の20mm機関砲を予定していた。爆弾搭載量は8,000kgとB29の9,000kgには及ばないものの日本の爆撃機では最大のものであった。1944年4月と5月にモックアップ審査が行われ結果は良好であったようだが、空襲の激化、材料の欠乏、ハ241ルエンジンの開発遅延等から1945年2月に開発中止が決定した。予定では1946年6月に試作1号機、1947年3月に2号機が完成する予定であった。

 

生産数

 計画のみ。

 

まとめ

 

 当時の日本には基礎技術力が圧倒的に不足していた。与圧室を作る技術、強力なエンジンを作る技術のどちらも欧米に比べて未熟であった。さらに、仮にキ91が完成していたとしても、当時の日本にはこの超重爆を量産する資源も生産能力もなかった。そして生産能力があったとしても米国の防空システムを突破することは難しかったであろう。B29ですら貧弱な防空システムと高高度性能の低い日本機相手に1割以上の損害を出していたことを考えると、高性能の米国戦闘機に対して優位に戦える可能性は低い。つまるところキ19が実戦に投入され戦果を挙げる可能性はゼロであったと言っていい。まさしく当時の日本の国力を超えた巨人機であったといえる。この機体を開発する資源やコストをもう少し有効に使用することは出来なかったのかと悔やまれる。しかし米国ですら開発に手間取った巨人機を開発しようとした技術者の挑戦のみは評価されてもいいだろう。

 

↓良かったらクリックして下さい。

ミリタリーランキング

01_イサカm37
(画像はwikipediaより転載)

 

 イサカM37は1937年に発売されて以来、現在でもセールスを伸ばし続けている米国のショットガンで最も長期間販売されている銃である。理由はシンプルな構造に起因する高い信頼性であり、ショットガンが自動化しつつある現在においても一定のシェアを持っている。

 

イサカ M37(実銃)

 

 

性能

全長 1017mm
重量 2.3kg
使用弾薬 12ゲージ、16ゲージ、20ゲージ、28ゲージ
装弾数 4+1発、7+1発(チューブ型弾倉延長タイプ)
設計・開発 ジョン・ブローニング、ハリーホーランド

 

背景から開発まで

 ニューヨーク州にある銃器製造メーカーイサカは、ショットガン市場でウインチェスターM12に対抗するためのショットガンの開発を指向していた。イサカはレミントンM17をベースとして、イサカM33を開発したが、関連特許がまだ残っていることを発見する。この特許が切れた1937年にイサカM37として発売した。

 

開発

 M37の最大の特徴は通常のショットガンのようにレシーバー下部から装填、レシーバー右側のエジェクションポートより排莢するという構造ではなく、下部から装填、そして排莢を行うことである。これにより雨やゴミ、埃が内部に侵入することが少なく、同時にレシーバーの強度が保ち易いため軽量化が可能になった。これは当時のショットシェルが紙で出来ていたために信頼性の向上に大きく貢献することになった。

 またM37は、他のショットガン同様、スラグファイアが可能であった。これは引き金を引き続けて、同時にポンプで給排莢を行うことで連射するもので、セカンドシアーという部品がポンプに連動してハンマーを落とすために起こる「意図的な暴発」機能であった。面を制圧するエリアウェポンとして威力を発揮するものの初心者が行うと事故のリスクが高まることや犯罪に使用されたことがあったため1990年以降のモデルではセカンドシアーは付けられていない。

 M37は、米軍に採用され、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争で活躍する。特にベトナム戦争のジャングル地帯での戦闘に威力を発揮した。軍以外では1940年代に、ニューヨーク市警とロサンゼルス市警に採用され1990年代後半まで使用されていた。それ以外に民間でも普及しており、1968年に生産100万丁を達成、現在はすでに200万丁を突破しているが、未だに生産・販売され続けている米国市場最長のロングセラーショットガンである。価格は2022年現在で$1,199〜2154である。

 

バリエーション

 1962年に米軍用に製造されたSプレフィックスは、表面はパーカーライジング仕上げで20インチバレルとプラスチック製のバットプレート、スリングスイベルのないプレーンストックという仕様であった。このモデルの一部は、米海軍特殊部隊SEALが使用していた。少数のスリングスイベルが付いたモデルも存在する。ステイクアウトは銃身を13インチに切り詰めストックをピストルグリップにしたモデルで、テレビドラマ『マイアミバイス』の主人公タブスが使用していたことで有名である。 その他にもレシーバーをアルミ製にしたウルトラライト、ディアスレイヤー等が存在する。

 

イサカ M37(トイガン)

 

 トイガンでは唯一KTW社がコッキング式エアガンとして発売している。発売開始は1997年でフェザーライト、ライアット、ソウドオフ、ポリスとバリエーション展開している。ライアットは全金属製でその他はABS製である。発射機構はエアコッキング式、カートレスで1〜2発の同時発射が可能である。外観のリアリティ、命中精度は非常に高い。価格も値ごろ感があるが、給弾がしにくいのが欠点である。短所であるマガジンの装填に関してはまほうの杖forITHACA -RIOT-を購入すると良いかもしれない。

 

まとめ

 

 イサカM37は1937年に発売され、現在でも販売され続けているマスターピースである。映画『ターミネーター』でカイル・リースが使用したショットガンとして有名である。機能に無駄な部分がなく信頼性も高いM37は今後も市場に残り続けるだろう。

 

↓良かったらクリックして下さい。

ミリタリーランキング

01_一式戦闘機
02_零戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 太平洋戦争中の軍用機で最も有名な機体は海軍の零式艦上戦闘機、通称「ゼロ戦」と陸軍の一式戦闘機、通称「隼」の2機種であろう。この2機種、実は使用しているエンジンも同じであれば設計思想も同じで非常に似通った機体なのである。同時期に開発され、またほぼ同時期に改良されたこの2機種の性能を比較してみたい。

 

ゼロ戦 VS 隼 〜概要〜

 

 

 

性能(零戦21型 隼儀拭

全幅 零戦 12.00m
   隼 11.44m
全長 零戦 9.05m
   隼 8.83m
全高 零戦 3.53m
   隼 3.31m
自重 零戦 1,754kg
   隼 1,580kg
最大速度 零戦 533km/h(高度4,700m)
   隼 495km/h(高度4000m)
上昇力 零戦 5,000mまで5分55秒
   隼 5,000mまで5分30秒
上昇限度 零戦 10,008m
   隼 11,750m
エンジン出力 零戦 950馬
   隼 950馬力
航続距離 零戦 2,222km(増槽装備時 3,502km)
   隼 1,146km(増槽装備時 2,600km)
武装 零戦 20mm機機銃2挺、7.7mm機銃2挺 60kg爆弾2発
   隼 12.7mm機関砲2門 100kg爆弾2発
設計開発 零戦 三菱
   隼 中島飛行機

 

開発

03_一式戦闘機
(画像はwikipediaより転載)

 

 海軍の傑作艦上戦闘機九六式艦戦の後継機として零式艦上戦闘機の開発が始まったのは1937年10月であった。設計主務者は九六式艦戦と同じく堀越二郎。高速化してきた先進国の航空機の進歩に合わせて速度の向上と航続距離の延長、さらには九六式艦戦並の運動性能までも要求するという不可能に近い要求であった。零戦の計画から2ヶ月後である1937年12月、陸軍も九七式戦闘機の後継機の開発がスタートした。無茶な性能要求は陸軍も同様であり、傑作戦闘機九七式戦闘機よりも40km/h以上の速度、1.6倍の航続距離、そして同等の格闘戦能力が要求された。これに対して中島飛行機は小山悌技師を設計主務者として開発をスタートする。

 試作機の完成は陸軍のキ43(のちの一式戦闘機隼)の方が早く、開発指示から1年後の1938年12月には試作1号機が完成した。これに対して十二試艦戦(のちの零戦)は3ヶ月後の1939年3月に試作1号機が完成する。どちらも戦闘機としては初の飛行時に脚が機体内に収納される引込脚、密閉型風防が採用された。エンジンは海軍が瑞星、陸軍は1939年に中島飛行機で開発されたハ25発動機(海軍名「栄」)であった。但し、零戦のエンジンは増加試作機の3号機以降は栄発動機に変更されている。

 

性能

04_零戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 飛行性能に関しては、キ43は機体が大型化した割には最高速度は495km/hと九七式戦闘機の470km/hより25km/h速いだけであり、航続距離は向上したものの旋回性能では九七式戦闘機に劣っていた。このため発動機をハ25の改良型であるハ105に換装した性能向上型を開発するということで採用は見送られた。

 これに対して零戦は同様に機体は大型化、旋回性能は低下したものの最高速度は533km/hと九六式艦戦を大きく上回っていた。武装は当初キ43は7.7mm機銃2挺のみであったのに対して零戦は20mm機銃2挺、7.7mm機銃2挺と強力であった。陸軍でも当初から12.7mm機関砲を搭載する計画はあったが、12.7mm機関砲の信頼性が今ひとつ担保されないため7.7mm機銃2挺という仕様になったのであった。のちに7.7mm機銃と12.7mm機関砲装備の儀寝機△気蕕12.7mm機関砲2門装備の儀進困開発されている。照準器は零戦のOPL光学照準器に対して隼は旧式の眼鏡型照準器を採用している。

 

零戦21型と隼儀神能比較

 最高速度が零戦の533km/hに対して隼の495km/h、機体設計はどちらも軽量化を重視したため機体強度は低く、零戦、隼共に空中分解事故を起こしている。上昇力は5000mまでの上昇時間が零戦の5分55秒に対して隼が5分30秒と優っている。上昇限度も零戦の10,008mに対して隼は11,750mと隼の方が上である。しかし、それ以外の性能では航続距離が零戦の2,222kmに対して隼の1146kmと半分程度で武装も零戦の20mm機銃2挺と7.7mm機銃2挺に対して、隼は儀進困任12.7mm機関砲2門と貧弱である。さらに照準器は零戦の光学式照準器に比べ、隼の眼鏡型照準器は照準する際に視界が狭くなり不利である。

 

陸海軍戦闘機性能コンテスト

 1941年1月、恒例の陸海軍戦闘機性能コンテストが開催された。これは陸海軍が会し陸海軍の戦闘機の性能比較をするというもので、1941年は海軍が零戦11型、陸軍が一式戦闘機隼儀燭鮖臆辰気擦拭この結果、カタログスペックでは、速度や航続距離は零戦、旋回性能、上昇力では一式戦闘機が優っている筈なのだが、上昇力を含め、すべての点において零戦の性能が優っていたという。これは海軍と陸軍の性能測定環境の違いであり、陸軍は海軍よりも有利な状況で測定した結果であったとみられている。

 

制式採用

05_一式戦闘機
(画像はwikipediaより転載)

 

 当時、日本は泥沼の日中戦争に突入しており、海軍は九六式陸上攻撃機によって重慶爆撃を行っていたが、九六式艦戦の航続距離では九六陸攻の護衛をすることは出来ず、損害が増していた。これに対して海軍は長大な航続距離を持つ零戦で九六陸攻を護衛するために制式採用される前に零戦を実戦に送り込んだ。制式採用は1941年7月である。これに対して隼は前述の通り陸軍ではあまり評価されておらず、中島飛行機も制式採用を諦めていたが、シンガポール攻略の可能性が検討され始めた結果、陸軍戦闘機の中では航続距離が長い一式戦闘機隼が制式採用されることとなった。零戦の制式採用から1年後のことであった。

 このような経緯から、太平洋戦争開戦時には零戦は南雲機動部隊、第三航空隊、台南航空隊等の第一線部隊にはほぼ配備されていたのに対して、隼が配備されていたのは飛行第59戦隊と第64戦隊の2個飛行戦隊のみであった。以降、零戦、隼共に陸海軍の主力戦闘機として量産されていくが、陸軍が1942年3月に隼の存在を愛称「隼」と共に公表したのに対して、海軍は1943年に至るまで零戦の存在を秘匿し続けた。このため当時日本国内では、零戦よりも隼の方が圧倒的に有名であった。

 

改良型の比較

06_零戦
(画像はwikipediaより転載)

 

隼況燭販軅32・22型

 太平洋戦争中盤になるとどちらの機体も旧式化が顕著となり、零戦、隼共にバージョンアップが行われた。隼が儀燭ら況拭↓祁燭伐良されていく。隼況燭亮腓焚良点はエンジンをハ115(海軍名栄21型)、プロペラを2翅から3翅に変更、主翼翼端を30cm短縮し、隼の弱点である機体強度を改良している。この結果、最高速度は515km/hとなったものの、重量の増加から翼面荷重が124kg/平方メートルとなり水平面の旋回性能が低下、上昇力も儀燭5,000mまで5分30秒から5分49秒、上昇限度も11,750mから11,215mと低下している。試作機は1942年2月に完成、1943年1月頃から実戦配備された。

 この隼況燭試作されるおよそ半年前の1941年7月、零戦32型が初飛行をした。この32型は隼況燭汎瑛佑縫┘鵐献鵑魃21型(陸軍名ハ115)に変更、主翼翼端を50cm短縮している。この改良により航続距離は大幅に減少したものの最高速度は545km/hに向上、上昇力も向上しているが、隼況深舁磴鮹蚕未靴燭燭疇瑛与緤震未寮回性能は低下している。この32型は1942年6月あたりから実戦配備されている。さらに1942年秋には主翼を21型と同様の長さに戻し、燃料タンクを増設した22型が完成。最高速度は541km/hと若干低下したものの、航続距離は歴代零戦中最長となった。隼況親瑛諭1943年1月に実戦配備されている。

 隼況燭販軅32型・22型の比較でも、最高速度が隼況燭515km/hに対して零戦22型でも541km/hと圧倒しており、やはり零戦に軍配が上がるようだ

 

隼祁燭販軅52型

 1943年末、陸軍は中島飛行機に対して隼祁燭寮澤廚鯑蘯─1944年3月に正式に製作命令がでた。主な改良点はエンジンを水メタノール噴射式のハ115競┘鵐献鵑法排気管を推進式単排気管に変更、操縦席前後に厚さ13mmの防弾鋼板が設置されたことである。試作機は1944年12月に初飛行、最高速度は568km/h、航続距離も2,100km、上昇力も5,000mまで5分19秒、上昇限度も11,400mと隼史上最高の数値が出た。量産機になると性能が低下したものの550km/hとそれまでの隼に比べると30km/h以上の高速を発揮している。

 零戦52型は、1943年8月に制式採用された零戦22型の改良型で主翼翼端を再び50cm短縮、32型のように角型ではなく、丸型に成形された。エンジンは22型と同じ栄21型エンジンであるが、排気管は推進式単排気管に変更している。この結果、最高速度は565km/hと零戦中最高速度を記録、最も遅い零戦52型丙でも540km/hを発揮している。上昇限度は11,740mで上昇力は6,000mまで7分1秒、航続距離は1,550kmであった。

 試作機の完成した時期が零戦の1943年夏に対して、隼祁燭1944年12月初飛行は1年半近くの開きがあり、単純な比較は無理があるかもしれないが、この頃になると流石に零戦も改良の限界を迎えたようである。上昇限度以外の性能は、おおむね隼祁燭寮能が零戦を上回っている。この隼祁燭砲覆辰独擦禄蕕瓩椴軅錣鯆兇┐燭箸い┐襦

 

そもそもだねぇ。。。

 

 しかしここで忘れてはならないのは海軍が制空戦闘機をここまで零戦一本で戦ったのに対して、陸軍は1943年には三式戦闘機飛燕、四式戦闘機疾風が制式採用、実戦に投入されていることだ。三式戦闘機は1941年12月に試作1号機が初飛行、最高速度が591km/hという高い性能を発揮した。1942年12月には飛行第68戦隊に配備が始まり1943年3月に完了、同年ラバウルに進出している。

 四式戦闘機疾風は1943年3月に完成、4月に初飛行、1944年8月には実戦に投入されている。最高速度は655km/h、上昇力は5,000mまで5分弱、航続距離は2,500kmと圧倒的である。隼対零戦という視点だけでみれば零戦がほぼ圧倒しているものの、陸海軍の戦闘機という視点で見た場合、零戦32型が登場した時点ですでに陸軍は三式戦闘機を完成させており、最高速度だけでも零戦32型の545km/hに対して三式戦闘機の591km/hは圧倒的である。さらに零戦52型に対して四式戦闘機の655km/hとはすでに比較にすらならない。海軍も末期には紫電改を開発するものの生産数は400機程度と圧倒的に少ない。海軍は零戦の高性能に頼り過ぎてしまったようだ。

 


ミリタリーランキング

01_コルトパイソン
(コルトパイソン 画像はwikipediaより転載)

 

シティーハンターとは

 

 シティーハンターとは、1985年から1991年まで週刊少年ジャンプに連載されていた北条司原作の漫画である。キャッツアイで人気を博した北条司が放った二度目のヒット作であった。1987年にはアニメ化され、第1期1987〜1988年、第2期1988〜1989年、第3期1989〜1990年、一年置いて1991年にはシティーハンター91として合計4期にわたって放送された。それ以外にも複数回実写も含めて映画化されている人気コンテンツである。

 主人公は冴羽りょう(環境依存文字なので平仮名ね)という裏の世界では名の知れたスイーパーで、戦闘に関してはトップクラスの技能を持つ。特に銃に関しては百発百中で天才的な能力がある。しかし同時に相当なエロという設定で現在ではいろいろなサイドからクレームが来ること必至のエロぶりであった。主人公が愛用するのはコルトパイソン4インチモデルでこの銃は1955年にコルト社から発売された。当時最強の弾丸である357マグナムを使用する拳銃であった。

 

 

コルトパイソン357

 

 機構的には古いメカニズムであったが特徴的なベンチリブと呼ばれるバレル上部に設置された放熱用の装置等、外観の美しさから現在においても多くのファンがいる。メカニズムは「く」の字型のリーフスプリングを使用することから、引き始めは軽く、徐々に重くなってくる。ハンマーが落ちる瞬間が最も重くなると言われている。これに対してS&Wのメカは逆に引き始めが重くその後は軽くなる。このためシューティングマッチではS&Wのアクションが好まれ、パイソンをベースにするシューターは少なかった。

 これは、パイソンのアクションだと最後の一瞬が最もトリガーが重くなる。この最後の一瞬のトリガーが重いと照準がブレてしまう。これに対してS&Wのリボルバーは最初が一番重く、最後に「ストン」と落ちるような構造になっているためシューティングマッチ等には向いているのだ。しかし銃身の精度は非常に高かったので、今のようにカスタムバレルあまり無かった70年代あたりには、パイソンの銃身をS&WのM19に装着したスマイソン、スモルトというモデルがガンスミスの手によって作られた。この銃身をねじ込むというのは実はS&Wとコルト、バレルのネジきりが逆なので大変なのだが、これは余談。

 しかしこれらの話はシューティングマッチという非常に精度を要求される場面においてであり、実戦で使用する場合は、パイソンのトリガーフィーリングは「グラススムーズ」と言われるほどなめらかで特に問題は無い様である。パイソンにはバリエーションが数種類あり、2.5インチ銃身、3インチ銃身、4インチ銃身、6インチ銃身、8インチ銃身、10インチ銃身モデル、さらにステンレスモデル等が存在する。8インチ銃身モデルは「パイソンハンター」と呼ばれ、他のモデルと異なり銃身にも「PHYSON HUNTER」と刻印されている。10インチモデルはあまり有名ではないが、「テンポインター」という名称が付けられている。

 

 

 

魅力的なパイソンの扱い

 

 シティーハンターで冴羽が使用するのは、当然、8インチ「パイソンハンター」!。。。ではなく、4インチモデルで、アニメではコルト社純正木製グリップを装着、実写版ではパックマイヤーのラバーグリップを使用している。ジャッキーチェン主演の映画ではベレッタM92Fを使用しているがこれは日本のガンファンにはひんしゅくを買ったようだ。因みにライバルの海坊主はM29を使用、香はローマンと主要キャラの銃はMGC製品で占められている。恐らく、原作者が銃を決める時にモデルガンを見て参考にしたのだろう。

 このアニメに登場するコルトパイソンは何とも言えない魅力に溢れている。コルトパイソンというのは高級なハンドガンではるが、特に特殊な拳銃という訳ではない。しかし作中では、敵が冴羽が持っている銃がコルトパイソンであることに気が付くと「コルトパイソン!?お前ただのネズミじゃねぇな」等とパイソンがすごい拳銃であると強調される。そして戦闘ヘリアパッチをも撃墜するシーン等、子供心にパイソンへの憧憬は募っていったのだ。もちろん実際に357マグナムで戦闘ヘリを撃墜することは不可能なのであるが、これもまたフィクションの魅力である。

 

ちょっと実銃のお話

 

 実際、北条司氏はあまり銃器には詳しくないようで、パイソンにサイレンサーを装着したり、オープニングのパイソンのハンマーに撃針が描かれていたりしていた(コルト社の拳銃のハンマーに撃針はない)。これはアニメ制作者が知らなかったのだろうが、全体として銃はたくさん登場するもののあまり詳しくはないのだろうということは想像がつく。しかし、それだからこそなのだろうか、銃に詳しいファンが考えないような魅力ある表現がされていて楽しいアニメである。

 因みにその他の登場銃としては、冴羽のライバルの海坊主が使用するM29がある。これはS&W製の大型リボルバーで44マグナム弾を使用するあまりにも有名な拳銃である。1955年に発表、当時世界最強のカートリッジである44マグナム弾と共に発売された最強のハンドガンであった。S&W社は「最強カートリッジ」を作るのが好きらしく、1935年に発表されたS&W357マグナム(のちのM27)も、このために開発された当時最強のハンドガンカートリッジ357マグナム弾を使用していた。さらに2003年のM500も当時最強(多分現在でも最強)の500S&Wマグナムが同時に開発されている。

 

 

ワンオブサウザンド〜S&WM57〜

 

 他にもコルトローマン等が登場するが、特に印象的だったのはワンオブサウザンドと呼ばれるリボルバーであった。これは確かS&WM57であったと思うが(M58とする情報もあり)、製造工程の誤差から1000挺に1丁の割合で偶然生まれる高精度の銃という設定であった。これは実際にあるようで、そうなると逆に1000挺に1丁のハズレ銃というのも存在するということになる。まあ、それは良いとしてこのM57、41口径マグナムというあまり知られていないカートリッジを使用する銃である。

 この41マグナム弾というのも新しくS&Wが開発したカートリッジでM57はこの41マグナムを使用する最初のリボルバーであった。発表されたのは1964年で上記の357マグナムと44マグナムの中間の使い勝手の良さを目指して開発されたカートリッジである。バリエーションには4インチ、6インチ、6-1/2インチ、8-3/8インチモデルでスチール製、ブルー仕上げとニッケル仕上げがあった。1964年から製造が開始されたが1991年で製造中止。2008年より再び製造が再開されて現在に至っている。因みにM58とはこのM57の廉価版でリアサイトは無可動でグリップもグレードの低いものが使用されている。法執行機関への採用を目的に製作されたモデルでM19に対するM10のような存在である。

 

ということでまとめ

 

 シティーハンターはもちろん荒唐無稽な設定であり、冴羽の銃の腕も実銃の性能を超えてしまっている。しかし私が知る限り最も魅力的にコルトパイソンを描いた作品の一つであり、あの時のワクワク感は今でもシティーハンターを観ると思い出してしまう。因みに、このパイソンはエアガンメーカーのタナカワークスが2020年10月にシティーハンター公式コラボレーションモデルとして発売している。一番の特徴はサイレンサーを装着できることであるが、私としては、あのアニメカラーの塗装までして欲しかった。そう、シティーハンターの銃はスチールフィニッシュではダメなのだ。あの黒みがかったグレーのアニメカラーがシティーハンターのパイソンの「リアル」なのだ。しかし発売してくれたことには感謝しておる。。。

 

 


ミリタリーランキング

01_SIGP320
(画像はwikipediaより転載)

 

 P320は、SIG社が開発したモジュラーシステムを採用した自動拳銃で、2017年にM17として米軍に制式採用された。スライドはステンレス、フレームはポリマー製で装弾数は17発である。ガスガンではSIGAirsoftが販売している。製造は台湾のVFC社である。

 

SIG P320(実銃)

 

 

性能(フルサイズモデル)

全長 203mm
重量 833g
口径 9mm、45口径、40口径
使用弾薬 9mm弾、45ACP、40S&W、357SIG
装弾数 17発(9mm弾)
設計・開発 SIG Sauer

 

背景から開発まで

 2004年、SIG社は公用向けに開発したSIGP250を発表した。これはこれまでのSIG社の大型拳銃に標準装備されていたデコッキング機能が廃止されたハンドガンで、さらにインナーシャーシ、バレル、スライド、グリップといった一組になったパーツをモジュラー化して、異なる口径の弾でも撃てるようにした画期的なものであった。生産は2007年から行われていたが、2018年以降はSIG社のラインナップから消えてしまっている。このP250を基にしてP320は誕生する。

 

開発

02_SIGP320
(画像はwikipediaより転載)

 

 P320は、2014年に発表した自動拳銃である。これまでのSIG社の大型自動拳銃と異なり、撃発にはハンマーを使用しないストライカー方式を採用している。さらにP250と同様にモジュラーシステムを採用しており、いくつかのパーツを交換することで複数のカートリッジを使用することができ、グリップのサイズや銃身のサイズも変更することが可能である。

 材質はフレームがポリマー、スライドはステンレス、バレル下部にはピカティニー規格の20mmレイルが装備されている。スライドストップ、マガジンキャッチは両利き用に変更可能であり、モジュラーシステムを採用しているために工具を使用せずにフィールドストリッピングをすることができる。

 2015年にはタイ警察の制式拳銃として採用され、15万丁が納入されている。さらに同年米国のハイウェイパトロール等でも制式採用された。2017年には、細部が改良された上で、フルサイズモデルはM17、コンパクトモデルはM18として米軍制式採用となった。調達予定は陸軍19.5万丁、空軍13万丁、海軍6.1万丁、海兵隊3.5万丁の合計42.1万丁である。

 SIG社は1985年の米軍制式拳銃トライアルにP226を提出したが、価格面においてベレッタ92に敗北することとなった。今回は、この失敗を糧としてSIG社は、銃本体と予備部品、アクセサリー、ホルスターまで含めた一式がわずか207ドルという価格で提供したのが受注の大きな要因の一つであろう。

 

欠陥

 初期のP320は、スライドの後端が地面に対して33度の角度で落下させると暴発する可能性があることが指摘されており、米国では訴訟問題にまで発展した。これに対してSIG社はリコールを行い、アップグレード版に改良されている。

 

バリエーション

 ノーマルモデルの銃身を20mm短くしたキャリーモデル、グリップも短くしたコンパクトモデル、さらにグリップを短くしたサブコンパクトモデルが発売されている。さらにXシリーズ、Xfiveシリーズとバリエーション展開している。

 

SIG P320(トイガン)

 

概要

 現在、SIGAersoftとAEGがガスガンを発売している。SIGAirsoftはSIG社のエアガン部門なのである意味実物ともいえる。実際に製造を請け負っているのは台湾のVFC社で、もちろん正式ライセンスを取得している。一応「実物」な訳で完成度は高い。全長は210mm、重量764g、装弾数は25発で命中精度も比較的良く、初速も80m/s強と高めである。アルミスライドが標準装備されている。海外製品であるため故障の際は不安が残る。

 これに対してAEG製のガスガンは基本的には刻印はない。全長204mm、重量825g、装弾数19発で、日本仕様にデチューンしているので75m/s前後と安定してる。メタルスライド装備で重量は実銃と同等になっており、エンジンは東京マルイのものに非常に似ている。重量や全長はVFC社のものよりもこちらが実銃に近いが、リアル志向のファンにとっては刻印がないというのはつまらないかもしれない。やはりエアガンは雰囲気を楽しむ面があるからだ。

 

まとめ

 

 P320は、米軍に制式採用されたことで一躍有名になった。P250以来のモジュラーシステムは画期的であり、SIG社初のストライカー式発射方式採用の銃でもある。流行のポリマー製フレームを使用する銃で初期のモデルで暴発が話題になったが、他には欠点という欠点は見当たらない。傑作ハンドガンになる可能性を秘めた銃といえる。

 

↓良かったらクリックして下さい。

ミリタリーランキング

01_藤田信雄と零式小型水偵
(藤田信雄中尉と零式小型水偵 画像はwikipediaより転載)

 

ドーリットル隊の日本本土爆撃

 

 1942年4月18日、ドーリットル少佐率いるB25爆撃機16機が日本本土を空襲した。この爆撃隊は空母ホーネットから発艦し、東京・名古屋・神戸を爆撃、そのまま中国に飛び去った。この爆撃は日本本土に対する米軍初の爆撃で、破竹の進撃をしていた日本軍の虚を突かれた帝都爆撃であった。爆撃の被害はのちの米軍の本土爆撃に比べれば小さかったが、帝都上空に敵機の侵入を許したという心理的効果は大きかったようで、軍令部や陸軍がミッドウェー作戦を決断する一因になったとも言われている(生出P154)。

 この時、同時にもう一つの構想が動き始めた。「何としても報復しなければなるまい」「そうだ。我々も米本土空襲をやろうではないか」という感じで決まっていったようである。しかしそうはいっても南雲機動部隊を米本土に出撃させるわけにもいかない。そこで潜水艦搭載の小型水上機による爆撃となったのである(藤田P54)。そしてもう一つ、別ルートでの話もあったようだ。それは元シアトル領事館員のアイデアで米国西海岸の森林地帯は毎年山火事に悩まされている。これを何とか人為的に起こすことが出来れば米国に効果的な損害を与えることができるというものだ。このアイデアは当時の作戦課長であった富岡定俊中佐へ手紙で届いたのだが、このプランはそのまま上部に上がっていった。そこで潜水艦搭載の小型水上機による米国西海岸森林爆撃という形になったようである(藤田P96)。

 

 

潜偵による爆撃という発想

 

 ここに藤田信雄飛行兵曹長(飛曹長)という男がいる。藤田飛曹長は1912年大分県生まれ、1932年佐世保海兵団入団。翌33年7月、霞ヶ浦航空隊で水上機操縦課程を修了、開戦時にはすでに飛行歴10年にもなろうとするベテラン搭乗員で、太平洋戦争開戦後は潜水艦伊25潜搭載偵察機の操縦員として乗艦、開戦当初から数々の偵察を成功させていた(秦P181)。藤田飛曹長はその積極的な性格から、当時、偵察のみで爆装はなかった零式小型水上機に爆弾を搭載、攻撃機として使用するというアイデアを海軍に提出していた。そしてこのアイデアが軍上層部の目に留まった。

 日本本土空襲への報復というアイデア、森林火災というアイデア、そして藤田飛曹長の零式小型水上機を爆装するというアイデア。この3つのアイデアが一つになったのが史上初の米本土爆撃であった。ここから米本土爆撃計画はトントン拍子に話は進んでいく。使用する潜水艦は藤田飛曹長が飛行長を務める伊号第25潜水艦である。この伊25潜は、伊15型潜水艦の6番艦で全長108.7m、全幅9.30m、基準排水量2,198トン、艦本式2号10型ディーゼル2基2軸を装備、最高速度は水上23.6ノット、水中8ノット、航続距離は水上16ノットで14,000海里、水中は3ノットで96海里に達する。巡潜乙型とも呼ばれ20隻が建造された(福井P316)。最大の特徴は零式小型水上機を搭載することで、この水上機は零式小型水上機と呼ばれる。

 零式小型水上機とは、1938年に一号機が完成、1940年に制式採用された潜水艦搭載用の小型水上機で全長8.53m、最高速度246km/h、航続距離882kmの木製、金属混合の骨組みに羽布張り、金属フロートを装備する総生産数は試作機を含めて138機であった(秋本P212)。開戦時、この小型水上機を搭載できる潜水艦は12隻あったが、この内、水上機を搭載しているのは伊25潜を含め、僅か6隻で、それらも搭載されていたのは旧式の九六小型水上機であった(秋本P213)。

 

 

海軍、米本土爆撃を計画

 

 1942年7月17日、伊25潜が横須賀に帰港した。伊25潜は太平洋戦争開戦時には第六6艦隊第1戦水戦隊第4潜水隊に所属、真珠湾攻撃時には付近の哨戒を行っていた。その後、米国西海岸での通商破壊戦を行ったのち、マーシャル諸島クェゼリン環礁で補給を受け、メルボルンの偵察を行っている。4月に一旦横須賀に帰港したのち、今度はアリューシャン方面に出撃、水上機によりダッチハーバー偵察に成功、その後、再び米国西海岸で通商破壊戦の後に浮上して艦載砲でオレゴン州フォートスティーブンス基地を砲撃している。まさに歴戦の潜水艦と言って良い。

 帰港中の8月1日、飛行長藤田飛曹長は軍令部に出頭を命じられ、皇族の高松宮中佐(昭和天皇の弟)が臨席する中、米本土爆撃を指示された。目標が森林地帯であることに藤田飛曹長は落胆したものの事情を知ると任務の重要性を認識、さらに副官が高松宮中佐をチラリと見たのち「我々はアメリカとは違う。民間人を殺傷するわけにはいかない」という言葉から、藤田飛曹長は、高松宮中佐は市街地攻撃には反対であると推測している(藤田P59)。

 この10日ほど前、藤田飛曹長は、横須賀の海軍航空技術廠で通称「金魚」と呼ばれる零式小型水上機に爆弾懸吊装置を装着しているのを目撃している。零式小型水上機は本来、爆弾を搭載することは計画されておらず、この時点で初めて爆弾懸吊装置を装着したようだ(藤田P57)。零式小型水上機の潜水艦搭載は1942年7月14日以降からなので(秋本P213)、伊25潜は初めて零式小型水上機を搭載したことになる。しかし、これに関して、秦氏は零式小型水上機は開戦前から潜水艦隊に配属されていたとしている(秦P181)。

 

 

作戦決行

 

 零式小型水上機と重要な任務を帯びた伊25潜は、1942年8月15日午前9時に横須賀を出航する。艦長は開戦以来の豪胆で鳴る田上明次少佐(海兵51期)で、今回の任務は、艦長と先任将校福本一雄大尉、藤田飛曹長と偵察員の奥田省二二飛曹の4人しか知らされていないという(藤田P64)。重要任務を秘めた伊25潜は、出航から約3週間後の9月4日、オレゴン州北部に到着、さらに南下した後、艦長は全員集合を命令、次のような訓示をしたという。

 

 「いいか諸君、本艦はこれよりはアメリカ本土攻撃を行う。知っての通りさる四月十八日、我が帝都東京は米国陸軍重爆B25に爆撃された。神州始まって以来の恥辱。これ実に、昭和の元寇である。加えて幼い人命を失ったことは、誠に痛恨の極みである。攻撃は藤田、奥田両君の、水偵による空爆である。これは東京空襲に対する我々からの心のこもった返礼である。借りはきっちり返してやろうではないか。米国建国百六十年、アングロサクソンの鼻っ柱を我々がへし折ってやるのだ」
藤田信雄『わが米本土爆撃』より引用

 

 あまりにもかっちょいいので引用してしまったが、多くの伊25潜乗組員は、これで今回の出撃の目的を知った。これによって艦内は万歳と喚声で興奮のるつぼと化したという(藤田P66)。ところが実は、出航時点で多くの乗組員に知られていた可能性がある。同じく伊25潜に乗組、米本土爆撃に参加した槇幸兵曹長の手記によると、出撃前後に「こんどの目標は米本土森林爆撃だそうだが詳細はわからない」とあり、さらに「一体なんのために山の中へ爆弾を投げこむのだろうか、みんか首をかしげていた」とある(槇P189)。むろん槇氏の本は、戦後に書かれたものなので「あと知恵」である可能性もある。しかし防諜意識の甘さ、関心の薄さで有名な海軍のこと(小谷P106)、網の無いザルのように情報が漏洩しまくっていたとしても不思議ではない。ただ、上記の艦長の演説は目的を知っていたとしても乗組員を興奮させるには十分だろう。名艦長である。

 

 

第1回米本土爆撃

 

 1942年9月9日5時30分、北緯42度、西経125度、ブランコ岬灯台距岸25海里の沖合で藤田飛曹長機は離水した(秦P187)。発進した藤田機は、ブランコ岬に達すると高度3,000mに上昇、目標地点に向かった(‘E弔任2,500mP161)。340馬力という非力なエンジンである上に2個の76kg爆弾を装備しているため速度は140km/hと遅い(藤田P69。秦氏は160km/hとしているP187)。この低速で飛行する零式小型水上機は2ヶ所の監視哨で発見、どちらも報告されたもののまさか日本軍機が米国上空を飛行しているとは思わず藤田機の侵入、爆撃、脱出を許してしまった(藤田P75、秦P190)。爆弾は2発とも目標通りオレゴン州の森林地帯に投下、2発とも爆発を確認している。この爆弾は、520個の焼夷弾子が入っており、爆発と同時に100m以内に散布され、1,500度の高熱で燃え上がるというものであった(秦P107)。爆弾を投下した藤田機は行きと同じコースを通って帰還している。

 藤田飛曹長と奥田二飛曹は無事母艦を発見、着水、収容されたが、その直後、伊25潜は、定時パトロールを行っていた第390爆撃機中隊のハドソン爆撃機3機に発見され爆撃を受けた(秦P192)。初弾は命中しなかったものの至近弾を受け、電信室の電源引込口が破られ浸水した(槇P198、岡村P300)。伊25潜は急速潜航、幸い浸水は止まったものの聴音機は故障、深度計も狂ってしまった(槇P199)。そして肝心の藤田機の爆弾であるが、爆発したものの偶然にも前日に季節外れの大雨が降っていたため山火事を起こすことは出来なかった(秦P192)。

 

第2回米本土爆撃

 

 9月29日、藤田飛曹長、奥田二飛曹は再び米本土爆撃のために出撃した。実は当初は計画されていなかった作戦であるが、艦内に爆弾がまだ4発残っているために艦長が決断したものだった。前回は昼間攻撃であったが、今回はさすがに警備が厳しいことを想定して夜間攻撃としたのだろう。投下地点も前回のように内陸部に侵入することなく沿岸部が選ばれた(藤田P90)。伊25潜は12時30分に浮上、その後浮上したまま大陸に接近、17時より飛行作業開始、21時07分に藤田機を射出したとしている(槇P209)。発進準備に4時間もかかったというのは不思議な気もするが、槇兵曹長がいう飛行作業とは発進準備だけではないのかもしれない。ともかく、伊25潜は、前回と同じくブランコ岬洋上で浮上、7海里の地点で浮上したのち、5海里の地点に移動、そこで藤田機を発進させた(藤田P90)。

 発進した藤田機は、母艦上空を一周して周囲を警戒したのちに、高度2,000mをとって再びオレゴン州の森林地帯を目指した。今回は夜間飛行ではあるが、月夜であるので陸地の区別は容易であった。なんせ敵地上空なので周囲を警戒しながら飛行すること25分、目標地点を選定して爆弾を投下した。爆弾は二つとも爆発、爆発音、閃光と共に煙が立ち上った。藤田飛曹長と奥田二飛曹はその煙を確認すると帰路についた。

 

 

偵察員は大変なのだ!

 

 集合地点に着いたものの、母艦は見えない。当時の航空機にはGPSというような便利なものはない。洋上飛行は後席の偵察員による推測航法となる。この推測航法とは、速度と方角、さらに偏流測定によって現在地を測るという技術で、わずか1°間違えただけで60海里飛行すると到達地点は目標よりも1海里もずれてしまう。

 偏流測定とは航空機の風による影響を測定する技術である。航空機は飛行中、横風の影響を受ける。この影響を無視すると飛行機の向かっている方向が少しずつ変わっていき最後には全然違う方向になってしまう。このためにこの横風「偏流」を測定、機位を正しく保つ必要があるのだ。この技術は非常に高度な技術で習得は海軍では「千本偏流」と言われていた。つまりは1,000回偏流を測定して一人前という訳である(鈴木P93)。偵察員とはあまり注目されない地味な仕事であるが、実は非常に高度な技術と経験が必要な「職人」なのである。

 爆撃を終了した藤田機は会合地点と思われる場所に到着、必死に海上を探すが母艦は見えない。と、そこに月光に照らされて一筋の航跡が見えた。これは伊25潜から漏れ出たオイルであったが、このオイル漏れのお陰で藤田機は無事に母艦に帰還することが出来たのだった。

 

その後の伊25潜

 

 1942年10月24日、伊25潜は、無事に横須賀に帰港、藤田飛曹長は田上艦長と共に小松宮輝久王の宮廷晩餐会に呼ばれた。そして12月、伊25潜は、トラック諸島に進出。ここで藤田飛曹長は官を降り、鹿島航空隊教官として内地に帰還している。その後、田上艦長、奥田省二二飛曹等も艦を降りている。新艦長の下出撃した伊25潜は、1943年7月25日トラック諸島より出撃、再び戻ることはなかった。戦後の調査によると伊25潜は、8月25日サント沖で米駆逐艦パターソンに撃沈されたものと推定されている(秦P198)。

 

この作戦って意味あるの?

 

 米国土爆撃作戦は成功した。2回攻撃を行い、どうも2回とも爆弾がオレゴン州の森林地帯爆発はしたらしい。しかし山火事になることはなく、実質的には損失はなかった。成果があったといえばこの決死の攻撃により米国民の「心胆を寒からしめる」ことができたかもしれないことだ。作戦の目的であるドーリットル隊の爆撃に対する報復は出来たのかもしれない。しかしそれは名目だけのことで実はなかった。当時の日本には潜水艦は貴重過ぎるくらい貴重な艦艇であった。乗組員は厳しい訓練を受けた精鋭、艦長も熟練者であり潜偵搭乗員達の練度も高かった。

 特に潜偵での発進、帰還には非常な技術と危険が伴う。敵に発見されないように離水、航続距離の短い潜偵で目標地点を偵察、そして帰還する。帰還時に敵に追尾されていれば帰還することはできない。追尾されていなかったとしても上記のように潜水艦を発見することは困難であり、同じく潜偵の搭乗員であった高橋一中尉も母艦を発見することが出来なかったこともあった(高橋P146)。さらに母艦を発見できたとしても、外洋での着水は波の高さによっては非常に難しい。無事着水できたとしても収容中は完全に無防備である。それらのリスクを克服して行われるのが潜偵の偵察である。

 ここまでのリスクを冒して貴重な潜水艦とより貴重な訓練を積んだ歴戦の乗組員を使用するにはこの米本土爆撃という作戦はあまりにもリターンが少ないように思える。確かに「世界で唯一の米本土爆撃」という名誉は手に入れた。しかし実態は森林地帯に小型飛行機が小型爆弾を合計4発投下しただけである。藤田飛曹長、奥田二飛曹、そして伊25潜の乗組員は勇敢だった。それは間違いない。しかしこの作戦自体に実質的な意味はどれほどあったのだろうか。この作戦に対する価値観こそが戦争末期に数千人もの乗組員を乗せて出撃した戦艦大和の水上特攻作戦と共通するものであるように思えてならない。

 

参考文献

  1. 生出寿『『勝つ司令部 負ける司令部』東郷平八郎と山本五十六』新人物文庫2009年
  2. ‘E朕雄「米本土爆撃記」『トラ・トラ・トラ』太平洋戦争ドキュメンタリー01今日の話題社1967年
  3. 藤田信雄『わが米本土爆撃』
  4. 秦郁彦『太平洋戦争空戦史話』上
  5. 福井静夫『日本潜水艦物語』光人社1994年
  6. 秋本実『日本軍用機航空戦全史』2巻グリーンアロー1996年
  7. 槇幸『伊25号出撃す アメリカ本土を爆撃せよ』
  8. 小谷賢『日本軍のインテリジェンス』講談社2007年
  9. 鈴木輝彦『あゝ還らざる銀翼よ雄魂よ』光人社1990年
  10. 高橋一雄『神龍特別攻撃隊』光人社2009年

 

 


ミリタリーランキング

01_S&WM657
(画像はwikipediaより転載)

 

S&WM57

 

開発・そして完成!

 S&WM57とはS&W社が1964年4月に発売した41口径マグナムカートリッジを使用するダブルアクションリボルバーである。装弾数は6発でフレームはM29と同じNフレームを使用した。このフレームは1935年S&W社が357マグナム(のちのM27)を設計した際に新規に製作された大口径弾の発射にも耐えられる頑丈なフレームであった。使用する41口径マグナム弾は正式には41口径レミントンマグナムで357マグナム弾と44マグナム弾の中間の威力を目指して開発されたものであった。

 主なセールス先は警察官等の法執行機関であったため、カートリッジ名も最初は「41口径ポリス」という名称すら提案されたほどであった。しかしS&W社はそれ以前の「マグナム」という名前の破壊力を重視。新しい41口径弾の名称も「41口径マグナム」となった。当初ラインナップされていたのは強力な破壊力を発揮するメタルジャケットで覆われたソフトポイント弾と法執行機関での使用を目的としたセミワッドカッター弾である。

 

思いっきり滑った!

 S&W社は最初の目的通りに警察や法執行機関に営業をかけるが、反応は鈍くいくつかの都市の警察に採用された程度であった。理由は、そもそも警察官は41口径という高威力の銃は必要としておらず、ほとんどの場合、今までの38口径スペシャルで不満はなかったからだ。仮に高威力を求めるのであれば357マグナムで十分であり、41口径マグナムという高威力のカートリッジを採用する必然性はなかった。実用性以外にも当時(恐らく現在でも)、警察の暴力行為に対する世間の目は厳しく、警察が大口径カートリッジを使用するのを躊躇わせる理由ともなった。

 そしてさらに41口径マグナムが不運であったのは、M57の発売から7年後の1971年に上映された『ダーティハリー』の大ヒットである。 これにより44マグナムを発射することができるM29が大人気となり、同時に41口径マグナムという「微妙な」立ち位置のM57の人気はさらに落ちていった。要するに徹頭徹尾陽の目を見なかった銃がM57なのである。

 

 

M57の特徴

 

 しかし、銃自体の性能が悪い訳ではない。安定した大型のフレームに44マグナムよりは反動の少ない41口径マグナムという組み合わせは撃ちやすく、民間のシューターには比較的評判が良かった。フロントサイトは赤のインサート入りでリアサイトは調整可能なフルアジャスタブル。銃身長は3インチ、4インチ、6インチ、8.375インチモデルが存在している。ターゲットハンマー、ターゲットトリガー、ターゲットグリップを装備しており、外観上はM29に酷似している。現在までに5回の小さな改良が行われており、オリジナルのM57から最新のM57-5まで6種類が存在する。さらに発売当初からニッケルメッキモデルも発売されており、こちらもブルーモデルと同様のバリエーションが存在するが、1986年にステンレスモデルの発売と同時に生産終了となった。1991年に生産が終了したのち、2008年に再生産。現在でも販売されているのはこのM57スチールモデルのみで価格は1,078ドルである(2022/9現在)。

 

廉価版のM58

 

 1964年7月10日、S&WはM57をさらに警察向けに改良したM58を発表。これはM57の廉価版で外観はM10ミリタリーポリスを彷彿とさせる。ヘビーバレルでエジェクターロッドは露出しており、リアサイトは固定式となった。グリップはサービスグリップと呼ばれる小型の細いグリップを採用した。このM58はサンフランシスコやサンアントニオ警察で採用されたものの生産自体は約20,000丁を製造、1977年に生産は終了した。個体数が少ないためにコレクターの間では注目されている逸品である。2008年にブルーモデル、ニッケルフィニッシュモデルが再販された。因みにブルーモデルとは青く塗装したモデルということではなく、ブルー液という酸化剤で金属の表面を処理したものだ。要するにフツーの黒い銃である。現在では販売されていない。

 

ステンレス製のM657

 

 さらに1986年にはステンレスモデルのM657を発売、これはM57のステンレスモデルである。バリエーションは多く、3インチ、6インチ、7.5インチ、8.375インチの4種類の銃身長のモデルに加え、アンダーラグモデルも存在する。アンダーラグモデルとは銃身の下におもりが装着されているモデルでこれにより反動を抑制するのと同時に銃のバランスの調整にも役に立っている。コルトパイソンやM686等で採用されている形式で横から観ると銃身が二つ上下に並んでいるように見える。さらにサイトもフルアジャスタブル(調整可能な)フロントサイトを装備しているモデルや固定サイトのモデル、シリンダーも溝が彫ってあるフルーテッドシリンダーモデルとノンフルーテッドシリンダーモデルが存在する。M57と同様、生産中止されたが2008年より再生産を開始しているが、現在は生産はされていない。

 

トイガンと「ワンオブサウザンド」

 管見の限りトイガンではモデルアップされたことはない。相当なガンファンでも外観上はM29と酷似しているため区別がつかない。実銃は41口径マグナム弾を使用するという必要性があったが、トイガンでは敢えてモデルアップする必要がないのだろう。因みにシティーハンターに「ワンオブサウザンド」として登場する。これは機械工作の偶然から数千丁に1丁の割合で奇跡的に命中精度の高い個体が存在するというもので、シティーハンターではそれがM57(M58?)であったという設定である。機械工作の偶然であれば全種類の銃にそのようなモデルが存在するハズなので、M57(M58)のみにそのようなモデルが存在する訳ではない(多分ね)。あくまでもフィクションの話である。

 

 


ミリタリーランキング

↑このページのトップヘ