トイレで読む向けブログ

全国のトイレ人よ立ち上がれ! 〜 since 2005 〜

04_零戦52型
(画像はwikipediaより転載)

 

教育は大切なのだの巻

 

知的水準の高い社会

 「人は何のために学ぶのか?」とは、結構お約束の哲学的な疑問である。実は私はかなり勉強好きなのでこれはもう疑問というよりも「これを疑問と思うのがギモン」レベルだ。調べものをする。勉強するは私の生活の中心なのだ。という私の自慢話はどうでも良いのだ。そんなものは誰も聞きたくはない。おっさんの自慢話、説教というのは人類最悪の行為と言って良い。

 とはいいつつ、何のために学ぶのかというのを考えることは大切だ。今、世間では学校無償化というのが問題になりつつある。高校無償化、大学無償化等々。そしてこういう問題が出ると必ず出る議論が「自分が勝手に高校や大学に進学して自分の知識や教養を高めるのにどうして国が金を出さなければならないのか」という批判である。

 これはこれでごもっとも。一つの意見としてはあるだろうが、私はこれに対しては異論がある。勉強というのは確かに自分自身のためにやっている行為である。大学の研究者というのは大概その研究が好きな趣味人と言っても過言ではない。高校、大学の勉強だって自分のためといえばその通り、もっと言えば義務教育だって自分のためと言えるのかもしれない。

 では教育はいらないのか。もし教育がなかったらどうだろう。誰も字が読めないし足し算引き算も出来ない。これでは現在の科学中心の世界では致命的なのだ。全くそういった教育を受けていない国民が多数であったとしたらその国ってどうなるの?と考えてみれば、教育というのは本人のためだけでなく社会や国家にとって必要なことなのだ。こう考えればスッキリするのではないか。

 さらに社会の構成員の知識、知性、教養がどんどん高くなっていけば、国家としてはすごいことになる。社会全体がハイレベルになるのだから科学技術や政治も国民の水準に従ってどんどん高くなっていくのだ。いいことではないか。でも、必要なのは「理系の知識だけだ。文系はいらないよねー」。こういった話もしばしば聞く。しかしそうではないのだ。社会として見た場合、全体的に水準が上がらなければダメなのだ。理系のみが優れていても文系の教養がなければ社会の成長というのは頭打ちになってしまう。たぶん。

 

世の中曼荼羅なのだ

 何故かといえば、これらの知識というのはどこかで繋がっているのだ。関係があるのだ。理系と文系なんて簡単に分けられるものではない。どこかで理系の知識も文系の知識も必要になる。それらが影響しあってさらに水準が上がっていくのだ。芸術や文学も同様である。どこでなにが関係してくるのかは分からない、しかし必ずどこかで関係してくるのが知識なのだ。

 かつて日本はゼロ戦という名機を作った。ゼロ戦以外にも一式戦闘機隼、紫電改、雷電、三式戦闘機、四式戦闘機。世界最高水準の航空機を作っていた。これらを作っていたのは東京帝国大学航空機学科の若いエリートエンジニアたちであった。東大は今も難関であるが、実は毎年3,000人が合格する。4学年併せると12,000人が在学しているのだ。東京都の人口の1,000人に1人は東大生なのだ。だが当時はそうではない。東京帝大の航空機学科の採用枠はせいぜい5〜6人程度である。東京帝大全体の在学生の数も推して知るべしだ。その選び抜かれたエリートたちが設計したのが上記の航空機だ。

 彼らは知識も能力も世界レベルでもトップクラスであったと言っていい。では、その彼らが作った航空機は本当に世界のトップクラスであったのか。ゼロ戦や四式戦闘機は本当に世界の最高水準であったのかといえば実はそうではない。確かに機体設計は秀逸であった。しかし日本は航空機用エンジンの技術が欧米ほど進んでいなかった。どうしても欧米に比べて性能の低いエンジンで設計しなければならなかった。そして故障も多い。エンジンだけではない。機体自体もデリケートで油漏れなどは日常茶飯事であった。

 それに比べて欧米の航空機は違う。雨ざらしにしておいても電源一発で起動するのだ。可動率も高い。何が違うのか。それは基礎技術の違いである。確かに機体設計は優秀な人材が揃った。しかしその設計を実現する技術が欧米に比べて未熟だったのだ。良いエンジンが作れない、設計をしても部品が作れない、ベアリングが作れない、プレス加工ができない等々。さらにはそれら部品を作る機械は外国製だったりと設計以外の基礎技術が弱いのだ。

 ゼロ戦にしても全部を日本人が設計している訳ではない。機体とエンジンは日本製ではある。しかしプロペラは米国製、機銃はスイス製、クルシー無線帰投装置は米国製である。実は主要パーツは外国製だったりもするのだ。当時の日本の技術では作れないのだ。これが航空機の稼働率の低さになってしまう。スーパーエリートの設計者がいるだけではダメだ。同時に製造技術、加工技術等、様々な技術が必要であり、それを習得できる基礎知識を持った人材が必要なのだ。

 

誰かが何とかしてくれる!

 では今現在はどうか。日本は当然ベアリングも作れるしプレス加工もできる。耐久財も日本製で基礎技術の高さは世界随一である。これらは昨日今日に得たものではない。太平洋戦争から、いや、もっと以前からのながーーーい蓄積によって得られたものだ。学校教育も充実して義務教育だけでなく高校まで行くのが当たり前となった優秀な人材。これらの蓄積が現在の技術を支えているのだ。この広い裾野のどこにどの知識が必要なんてわからない。総合的なものだ。

 故に理系だけ、文系だけ(これはないか(汗))という風に学問を限定してはダメだ。単純に考えても技術を生かすためには政治が大事である。政治自体が文系であることはもちろんであるが、政治問題は時として歴史問題でもある。社会や経済の知識も大切であるし、芸術だって工業製品のデザインという実用的な価値もある。文学も人の内面を理解するには大切だ。技術に限らず、学問というのもどれか一分野さえあればそれでいいという訳ではないのだ。

 最初に書いたように社会の水準は高ければ高いほどよい。高校無償化、大学無償化大賛成である。日本は教育水準の高い国民で構成されていた繁栄したのだ。教育には最優先で金をかけなければダメだ。その他の問題はその教育を受けた優秀な人が何とかしてくれるのだ!(最後は丸投げ(汗))

 

 

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01_天雷
(画像はwikipediaより転載)

 

 局地戦闘機天雷とは、中島飛行機によって開発された試作局地戦闘機で合計6機が製作された。対大型機迎撃用の双発単座戦闘機で1944年に完成したものの誉エンジンの品質低下による性能低下のため想定したほどの性能が発揮できず制式採用はされなかった。

 

局地戦闘機 天雷 〜概要〜

 

 

性能

全幅 14.50m
全長 11.50m
全高 3.51m
自重 5,000kg
最大速度 596km/h(高度5,600m)
上昇力 6,000mまで8分
上昇限度 9,000m
エンジン出力 1,990馬力(誉21型)2基
航続距離 2,740km(増槽装備時)
武装 30mm機銃2挺、20mm機関砲機銃2挺
爆装 60kg爆弾2発
設計・開発 大野和男 中村勝治 / 中島飛行機

 

背景から開発まで

 1942年、海軍は戦闘爆撃機という新しい機種が新設された。この戦闘爆撃機とは攻撃機隊に随伴しての援護や制空を主任務とし、さらに強行偵察や爆撃も行える複座の陸上機であった。このため性能要求は、敵戦闘機以上の速度で敵戦闘機を撃滅できること、夜間戦闘の能力が要求されていた。この戦闘兼爆撃機は同年末、十七試戦闘兼爆撃機として中島飛行機と愛知飛行機に発注されており、1944年初頭に試作機が完成する予定であった。

 当初は戦闘兼爆撃機という機種でスタートした計画であったが、1942年頃には前線ではB17爆撃機の撃墜に苦慮するようになっており、さらにはそれを上回る重爆撃機B29の開発の情報も入ってきた。このため計画は戦闘兼爆撃機から昼間迎撃用の重武装、重装甲の双発単座戦闘機の開発に変更されることとなった。そして翌年の1943年1月、十七試戦闘機兼爆撃機は十八試局地戦闘機試製天雷(J5N1)として再スタートした。

 

開発

 開発命令を受けた中島飛行機は、中村勝治技師を設計主務者として開発を開始、2〜3ヶ月後には大野和男技師に交代しながら開発を継続、1943年9月17日には第一次模型審査、1944年5月には強度試験用の零号機、6月20日には試作1号機が完成した。

 エンジンは中島製誉21型(1,990馬力。陸海軍統合名称「ハ45/21型」)2基、全金属製モノコック構造で翼面荷重は零戦、隼の2倍以上の229.5kg/屬任△辰拭K秒徳置は操縦席前面に厚さ20mmの防弾鋼板、前方風防には厚さ70mmの防弾ガラス、燃料タンクにも防弾処理がされていた。武装は九九式2号4型20mm機銃2挺(弾数各200発)、30mm固定機銃(五式30mm固定機銃1型。弾数各100発)2挺、爆弾は60kg爆弾2発搭載可能であった。

 初飛行は1944年7月8日であったが、大方の期待に反して性能は計画値を下回った。最大速度は計算値では663km/h(高度6,500m)であったのに対して実際は596km/h(高度5,600m)、上昇時間は計算値では6,000mまで6分、8,000mまで9分27秒であったが、実際は6,000mまで8分、8,000mまで11分であった。さらには振動、油漏れとあったエンジン関係のトラブルも相次いだ。フラップとナセルの形状に問題があったこともあったが、原因の多くは、大量生産され、粗悪品が目立ち始めた誉21型エンジンによるものであった。

 想定以下の性能と戦局の悪化に伴い、一旦は整理の対象となったが、B29来襲の可能性が増したため開発を継続、1945年2月には試作6号機まで完成した。しかしここで製作が中止されてしまう。完成した6機の内、5、6号機は前方銃の弾倉を撤去して計測員席を設け複座化、斜め銃も装備して3号機と共に実用実験も行われた。

 

生産数

 試作機6機のみ製作された。1号機、5号機は試験中に脚故障で胴体着陸、2号機は11月25日試験中に着陸大破、4号機は空襲で被爆破損、終戦時にはどちらも30mm斜め銃2門を装備した単座型の3号機と複座型6号機のみが残っていた。戦後、米軍に接収され現在でも機体の一部が残っている。

 

まとめ

 

 天雷は対大型機迎撃の期待を一身に背負って開発されたのであったが、海軍お約束の欲張り性能要求があった上に、誉エンジンの能力低下により期待したほどの性能は発揮できなかった。仮に開発が成功していればB29迎撃に威力を発揮したことであろう。しかし当時の日本の基礎工業力の低さでは設計者がどんな名機を設計したところでそれを精確に製作できる能力はなかった。急速に勃興してきた国の悲しさであろう。

 

 

 

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03_ワルサーPP
(画像はwikipediaより転載)

 

 ワルサーPPは、1929年に完成した傑作オートであり、その機構は革命的ともいえるものであった。PPKはショートモデルでこれらをベースに大口径化したのが名銃ワルサーP38である。ワルサーPPKは、007でジェームズボンドが使用していたことで有名な銃である。

 

ワルサーPP(実銃)

 

 

性能(380ACPモデル)

全長 155mm
重量 665g
口径 9mm
使用弾薬 380ACP
装弾数 7+1発
設計・開発 ワルサー社

 

背景から開発まで

 1886年、カール・ワルサーは、ドイツ中東部のチューリンゲンに小さな鉄砲店を開いた。この地方は古くから銃器の生産が盛んな地域であった。ここでカール・ワルサーは本格的な拳銃の開発に乗り出すことになる。カール・ワルサー社が最初に開発した拳銃は1909年に完成したモデル1と呼ばれる自動拳銃で、その後、モデル9まで発売される。そしてその次に開発されたのがワルサーPPと呼ばれる自動拳銃であった。

 

開発

02_ワルサーPP
(画像はwikipediaより転載)

 

 1929年、ワルサー社は世界初のダブルアクション機能を搭載した自動拳銃を開発した。1931年にはスライドとフレームを短縮したPPKモデルが発売、されたのは1931年で警察からドイツ国防軍、ゲシュタポ等に広く採用された。ストレートブローバック、デコッキング機能、チャンバーインジケーターを持つ革新的な機構であり、これらの機構は現在においても多くの銃器に継承されている。デザインはソビエトの中型オートマカロフにも影響を与えている。

 戦後、ドイツでは銃器の製造が禁止されたため、ワルサー社はフランスのマニューリン社にPP、PPKの製造許可を与えたためマニューリン社製のPP、PPKも存在する。この契約は1986年に失効している。その他ライセンス生産では、1978年米国レンジャーマニファクチャリングが米国で初めて製造。1983年にはアラバマ州のエムコが製造ライセンスを取得、1999年まで製造を続けた。その後、2001年(2007年とも)からはS&Wが製造ライセンスを取得、2012年まで製造を続けた。2013年、ワルサーUSAが設立され、ドイツ製ワルサーPPが輸入されている。最近は、シグ・ザウエルP230に変更されたようだが、日本の警察、皇宮警察でも使用されていたようだ。ステンレスモデルは米国製のみ。

 

バリエーション

 PPK/Sは、1968年の米国への小型拳銃の輸入規制である1968年銃規制法にPPは該当したためPPKのスライド、バレルをPPに装着したモデルで、PPK-Lは、フレームにアルミニウム合金を採用したモデルである。銃のコントロールが難しくなるため22LR仕様と7.65mm仕様のみ製造された。PPK/EはハンガリーのFEG社が製造したもので22LR、7.65mm弾、380ACP弾モデルがある。

 

〜1945年までのPP(PPK)のバリエーション

01_ワルサーPP
(画像はwikipediaより転載)

 

1929〜1930年まで初期モデルであるPPラージハンマーモデルは7.65mm口径で装弾数8発。約5,000挺生産されている。

1930年には同じく7.65mmの初期生産型が1934年まで約30,000挺生産されている(装弾数8発)。 1931〜1932年までPPK初期モデルが生産された。7.65mm口径で装弾数7発。約20,000挺生産されている。

1932年からマガジンキャッチをグリップ下部に移動させ、380ACP弾仕様にした初期ボトムマガジンキャッチモデルが1934年まで生産され、PPが約2,000挺、PPKが約1,000挺生産されている(PPは装弾数8発、PPK7発)。

1933年から1934年まで口径7.65mm装弾数7発のPPK RZMモデルが約3,500挺生産されている。

1934年には民間向けのコマーシャルモデルが発売される。口径は7.65mmでPPは装弾数8発、PPKは7発。1940年までにPPが約150,000挺、PPKが約100,000挺が生産された。

1935年からワルサーPP NSKKモデルが発売、口径は7.65mm装弾数8発。1936年まで製造が続けられ約6,000挺が生産された。

1935〜1937年までPPKパーティリーダー(党首)モデルが生産されている。7.65mm口径装弾数7発。約5,000挺生産された。

1940年からはPPボトムマガジンキャッチモデルの生産を開始、380ACP仕様で装弾数7発(PPKは6発)、1942年までにPPが約10,000挺、PPKが約2,000挺製造された。

1940年から後期モデルが生産を開始、1944年までにPPが約165,000挺、PPKが約90,000挺生産された。7.65mmで装弾数8発(PPKは7発)。

1942〜1944年までフレームをアルミニウム製にしたデュアルフレームモデルが生産開始。7.65mm口径で装弾数8発(PPは7発)、PPが約8,000挺、PPKが約6,000挺生産された。

1944〜1945年までACマークモデル(ACはワルサー社を表すコード)が生産される。7.65mm口径で装弾数8発(PPKは7発)。

 

ワルサーPP(PPK)(トイガン)

 

概要

 1964年にMGCがモデルガンでPPKを発売している(1型)。これは安全装置の作動が実物と逆であった。さらに1967年にはこの作動を実銃と同じにした所謂2型が発売、1970年には3型が発売されている。これらはタニオアクションと呼ばれるものであった。1968年にはマルゴー製PPKが発売されているがこれはMGCのコピーである。このMGCのPPKはハドソン、KKS等にもコピーされている。CMC製のPPKは1974年、マルシン製は1973年に発売されている。現在でも入手可能なモデルはマルシン製のみである。

 エアガンに関しては、マルシン製のエアコキが80年代に販売されていた。他にもエアコキが数社から発売されている。ガスガンは、マルシン製は固定スライドモデル、マルゼン製のガスブロのみである。このマルゼン製PPKはガスガンの傑作のひとつであろう。固定スライド時代から命中精度とコスパで評判が良かった。さらにガスブロになっても悪い噂は聞かない。さらに東京マルイからニュー銀ダンエアガンとして発売されている。パワーは弱いが面白いエアガンである。

 

まとめ

 

 PPKのデザインは80年前とは思えないほどシンプルで「新しい」。最近ではシグ・ザウエルP230に人気が移っているようだが、基本性能はPPKもそれほどは劣ってはいない。ちょっと小さいし。これからも実用品として生き続ける銃であろう。

 最後にちょっと余談であるが、私も昔、マルシン製のエアコキワルサーPPKを持っていた。当時のエアコキはどうしてもスライドを押して空気を圧縮するタイプが多かったが、マルシンのPPKはスライドを引いて空気を圧縮するタイプだったのだ。これが気に入って購入した。これが購入してみると、この所有感とでもいおうか、何とも言えない愛着が湧いてしまった。性能はお話しにならない。。。が好きだったのだ。

 

 

 

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01_ワシントン会議
(画像はwikipediaより転載)

 

超要約

 

 アメリカが提唱。列強各国の中国の権益の新規獲得禁止を決定。現状維持であるが、日本の進出を警戒した米国の圧力や国際的孤立を恐れたため日本は第一次世界大戦で獲得した山東半島を返還することになった。以降、ワシントン体制という軍縮、国際協調の時代が訪れた。

 

九か国条約

 

 日露戦争が終わると日本はロシアから獲得した関東州と南満州鉄道を中心に中国への進出を強めていった。これに対して中国進出に出遅れた米国は満鉄の共同経営を提案するが日本に拒否されてしまう。米国と日本は中国を巡って利害が対立、さらに米国は、大国ロシアに勝った日本へ軍事的な警戒心も抱き始めていた。米国から見れば日本は隣国で、隣国が軍事的にも経済的にも力を付け始めたのだ。そして第一次世界大戦では、日本は日英同盟を理由に参戦。どさくさに紛れてドイツ権益である山東半島や南洋の島々を占領してしまった。

 そこで米国は、自国が主催したワシントン会議によって中国の門戸開放を主張。要するに「自分も一枚かませろ」という訳だ。この結果、締結されたのが九か国条約で、新たに権益を獲得することを禁止した。つまりは「昔の権益は持っていていい」ということだ。しかし日本に対しては満洲の権益には目をつぶる代わりに米国は、第一次世界大戦で獲得した山東半島は返還を求めた。日本の力が強くなりすぎるのは米国にとってよろしくないのだ。

 これに対して日本は抵抗するが、当時の日本は、1907年に締結した日露協約というロシアと結んだ同盟と日英同盟という英国と結んだ同盟の二つの同盟を持っていた。しかしロシアには革命が起こりソビエトとなってしまったため協約は解消、日英同盟の延長も米国やカナダが難色を示していることから日英同盟も危ない。ここで米国の提案を拒否すれば、日本は国際的に孤立してしまう。このため日本は渋々と山東半島は返還することにした。しかしこの条約に参加した国の多くは山東半島の日本支配を肯定していたため、米国の仲介により日本と中国の二国間交渉で返還することになった。

 これらを経て日本は「ワシントン体制」という国際協調の中に組み込まれていった。但し、この九か国条約、ソビエトが入っていなかったこと、違反に対する制裁規定はなかったこと、これがのちに問題となっていくのだ。

 

 

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01_M1897
(画像はwikipediaより転載)

 

ウインチェスターM1897ショットガン

 

 米国ウインチェスター社製ショットガンで有名な銃器設計者であるジョン・ブローニングによって設計された。全長1,000mm(20インチモデル)、重量3.6kg、装弾数5発(または6発)+1発で主に口径は12ゲージと16ゲージの2種類であり、さらに多くのバリエーションが存在する。このM1897は、同じくジョン・ブローニングが設計したM1893を改良したもので、M1893が黒色火薬の使用を前提としていたためフレームを強化。無煙火薬の使用を可能としたこと、薬莢を側面から排莢することが出来るようになったこと、安全装置としてスライドロック機能が追加されたこと等が挙げられる。

 発売当初は銃身とレシーバーは固定されていたが、1898年から銃身分離式モデルに変更。1899から生産が始まった16ゲージモデルは当初から銃身分離式であった。バリエーションは主に8種類で特に軍用散弾銃として銃身に放熱板、着剣装置が装備されたトレンチガンが有名である。1897年7月(11月とも)から生産が開始、1957年9月まで製造された。M1893の改良型であるためシリアルナンバーはM1893の続きである34,150から始まり1,024,701で終わっている。生産数1,024,701丁。1912年には後継モデルのM1912が発売されており、どちらもスラムファイアが可能である。発売から120年以上経過している銃であるが、現在でも使用されている。

 

サイト内リンク

 

 

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01_ソビエト
(画像はwikipediaより転載)

 

超要約

 

 ソビエト連邦とは単一の国家ではなく、1922年に成立した複数の共和国で構成される社会主義連邦である。共産主義の構造上の問題から経済が停滞、権力の集中により汚職が蔓延した。1980年代に改革を試みるも中央が統制力を失ったために構成国が独立、1991年に崩壊した。

 

ソビエト社会主義共和国連邦

 

成立から発展

 ソビエト連邦とは、1922〜1991年まであった世界初の社会主義国家である。一応は共和国が集まった連邦国家であったが、ソビエト共産党による中央集権的な政治が行われていた。

 1917年、ロシア帝国が崩壊した。これによりボルシェビキ(のちのソビエト共産党)が臨時政府を設立。その後、ボルシェビキと反対派の内戦が激化するもののボルシェビキが勝利。1922年、ボルシェビキによりロシア帝国の領土の大部分を領域とするソビエト連邦が成立する。しかしボルシェビキを指導していたレーニンは1924年に死亡。後継者スターリンの独裁が始まる。

 このスターリンは反対派を弾圧。大粛清をはじめとする恐怖政治が行われる。経済は、計画経済と呼ばれる中央が全て管理する方式を採用。その失策により、ホロドモールと呼ばれる数百万人規模の餓死が起こるのもこのころである。1953年にはスターリンが死亡するが、ソビエトは、資本主義国家のように競争が無く、権力が集中しやすい構造であったため経済は停滞、集中した権力による汚職が蔓延した。さらに1979年にはソビエト軍がアフガニスタンに侵攻。経済はさらに苦しくなった。

 

改革から崩壊へ

 プラハの春と呼ばれる反対勢力に対する軍事侵攻やアフガニスタン侵攻により西側は対決姿勢を鮮明にする。そして経済の停滞により技術革新も進まず、西側との経済格差は広がっていった。この中で1980年代になるとゴルバチョフ書記長が登場、ペレストロイカ(改革)、グラスノスチ(情報公開)という一連の改革を実施した。これによりソビエトはそれまでの一党独裁の体制から議会政治に移行、経済も自由化が進んだ。

 しかしこれらの政策によって、それまで集中していた権力が分散、情報公開により様々な政権内部情報が公開されたことにより中央の統制力が低下、ソビエト構成国の独立運動がさかんになる。ソビエトの同盟国であった東欧諸国でも民主化革命が起こり始める。

 1991年8月、これらソビエトが解体の方向に進んでいくことに危機感を持った保守派がモスクワで蜂起。クーデターを実施したもののこのクーデターは国民の支持も諸外国の支持も得られなかったため失敗した。しかしこのクーデターによりゴルバチョフも影響力を失ってしまった。中央の統制力が弱体化した結果、ソビエトを構成していた共和国が次々に独立を宣言、新たにCIS(独立国家共同体)を構成することを決定、そして1991年12月25日、ゴルバチョフ書記長はソビエト連邦の解体を宣言した。

 

CIS(独立国家共同体)

 ソビエトに代わり結成されたCISであったが、これはソビエトのように強力な中央集権の連邦ではなく、独立した国家の連合体であった。現在でもロシアを中心に存続しているが、ウクライナ、ジョージアは脱退している。

 

 

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01_F4F-3
(画像はF4F-3 wikipediaより転載)

 

グラマンF4Fワイルドキャット

 

 

  F4Fはグラマン社が開発した艦上戦闘機で、第二次世界大戦では前半は主力艦上戦闘機として、後半は護衛空母艦載機として全期間にわたって運用された傑作艦上戦闘機である。

 1935年、米海軍はグラマンF3F複葉機に代わる次期艦上戦闘機トライアルを行った。グラマン社は複葉機XF4F-1でこのトライアルに挑戦したものの、ライバルであるブルースター社は、全金属製単葉機F2Aを開発していた。これに対してグラマン社は複葉機であるF4F-1ではF2Aに勝てないと考え、完全に再設計、単葉のXF4F-2を開発した。初飛行は1937年9月2日で、トライアルの結果は速度ではわずかにXF4F-2が優っていたが機動性ではF2Aには及ばなかったため次期艦上戦闘機はF2Aに決定したものの、グラマン社は海軍の許可の下、継続してXF4-2の開発を続けた。そしてエンジンを新たにプラット&ホイットニーR-1830ツインワスプ二段二速過給機付きエンジンに変更、主翼のサイズも拡大するなどしたXF4-3を開発、性能でF2Aを上回ることに成功した。初飛行は1939年2月12日である。

 この時、次期艦上戦闘機に採用されたF2Aはブルースター社初の全金属戦闘機ということで生産が上手くいかず米軍への納入が滞っていたこともあり、1939年8月に海軍はXF4-3、78機の購入を決定した。1940年2月には米海軍に納入開始。1941年10月1日、F4F-3ワイルドキャットとして米海軍に制式採用された。このF4F-3は、全長8.76m、全幅11.58m、全高3.61mで離陸重量3,367kg、エンジンは1,200馬力プラット&ホイットニーR-1830-76 14気筒星型エンジンでプロペラは3翅定速プロペラであった。最高速度は533km/h、航続距離は1,360km、実用上昇限度は12,000m、翼面荷重139kgであった。武装は12.7mm機銃4挺で(1挺あたり450発)、45.4kg(100ポンド)爆弾2発、または燃料タンク2個を翼下に搭載可能であった。

 しかし空母艦載機として考えた場合、F4F-3はあまりにも大型であったため主翼を折り畳める機能を求める声が大きかった。このためF4F-3に主翼を折り畳める機能を搭載、エンジンもR-1830-86ツインワスプエンジン(1,200馬力)に変更、機銃も4挺から6挺(1挺あたり240発)に変更したF4F-4を開発。この機体は1941年4月14日に初飛行に成功している。しかし主翼の折畳装置に加え、機銃を2挺増設したために重量が増加、最高速度は512km/hに低下、上昇力も低下してしまった。さらに機銃の装弾数が1挺あたり450発から240発に減少、射撃の振動も酷くなったことからパイロットからは嫌われたようである。

 1943年になると、グラマンはF4Fの後継機であるF6Fヘルキャットの生産に専念するためにF4Fの生産を終了したが、F4F自体は小型の護衛空母に搭載するための艦載機としては十分な性能を持っていると判断されたため生産は継続されることとなった。但し、生産はグラマン社ではなく、ゼネラルモータース/イースタンエアクラフトで行われることとなり、その際に仕様も変更、評判の悪かった機銃も4挺に戻し、翼下にはロケット弾6発を搭載可能にした。これはFM-1と呼ばれるが、さらにその後、エンジンも1,350馬力R-1820-56に変更、それに合わせて機体も設計を変更したFM-2が開発された。FM-1/2の総生産数は5,280機である。

 F4Fは総生産数が7,860機に達した傑作機あったため、写真偵察用F4F-3P、F4F-7、水上機モデルのF4F-3S、エンジンを換装したF4F-5等多くのバリエーションがある。さらに米国以外でも英国海軍航空隊がマートレットとして採用している他、カナダ海軍も少数機を採用している。

 

 

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01_九九式襲撃機
(画像はwikipediaより転載)

 

 九九式襲撃機・軍偵察機とは、1939年に初飛行した日本陸軍の襲撃機・偵察機で、機体は堅実な設計で固定脚を採用、安定したエンジンを装備していたため信頼性が高く使い勝手の良い機体であった。このため本来の用途以外にも練習機や連絡機として終戦まで活躍した。特別装備としてガス雨下装置(毒ガスを散布する装置)の搭載が可能である。爆弾搭載量が200kgと少ないのが欠点である。

 

九九式襲撃機・軍偵察機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 12.10m
全長 9.21m
全高  - m
自重 1,873kg
最大速度 424km/h(高度3,000m)
上昇力 5,000mまで8分47秒
上昇限度 8,270m
エンジン出力 940馬力(ハ26供
航続距離 1,060km
武装 7.7mm機銃1挺、7.7mm旋回機銃1挺
爆装 50kg爆弾4発または
   15kg爆弾12発
設計・開発 大木喬之助 / 三菱重工

 

軍偵と襲撃機

 襲撃機とは1938年の『航空器材研究方針』に初めて登場した区分で、敵飛行場にある飛行機や地上部隊の襲撃を主任務とする機種で、軽快で超低空飛行、急降下爆撃が可能であることが要求されていた。武装は、50kg以下の爆弾を200kg搭載できること、固定機関銃、旋回機関銃各1挺、特別装備としてガス雨下装置を搭載でき、その装置量は爆弾量の1/2以上とすることが要求されていた。ガス雨下装置とは毒ガスを空中から散布する装置のことである。

 その後、1940年の『研究方針』改定時には、襲撃機の性能の中に高速であることと単座であること、さらに特別装備であったガス雨下装置が爆弾との交換装備となった。1943年の改定ではこの項目は省略されている。因みに毒ガスは1925年のジュネーブ議定書において使用が禁止されている。この条約は1928年に発効している。日本はこの条約に署名、1970年に批准している。

 この1938年の『研究方針』以降は、軍偵察機は襲撃機と同一機種とすることが決められていた。軍偵察機とは陸軍の偵察機の区分の一つで他には直協偵察機、司令部偵察機がある。直協偵察機とは地上部隊との連携の下に偵察活動をする機種で、司令部偵察機とは戦略偵察を行う機種である。つまり「直協=近距離」「軍偵=中距離」「司偵=遠距離」と考えて良い。そして同一機種を襲撃機型と偵察機型に分ける方針が決定した。

 

開発

02_九九式襲撃機
(画像はwikipediaより転載)

 

 1937年12月、陸軍は三菱重工に対して襲撃機の開発を内示した。1938年2月、正式に開発が指示される。これに対して三菱は大木喬之助技師を設計主務者として開発を開始した。同年12月、軍偵察機型の開発が指示されるが、これは襲撃機型に航空写真機を装備しただけのものにする計画であった。

 1939年6月には試作1号機が完成した。初飛行の結果、特に問題点は指摘されず、最高速度424km/hを記録、操縦性は良好と高評価であった。7月からは基本審査が開始、同時に増加試作機11機の製作が発注された。10月からは実用審査が開始、12月に九九式襲撃機として制式採用された(1940年5月説もあり)。

 エンジンはハ26供940馬力。海軍名「瑞星」)を採用、プロペラは2.9m3翅定速ハミルトンプロペラであった。主翼は低翼で、エンジンが小型であったため胴体はコンパクトにまとめられた。性能要求では引込脚、胴体内爆弾倉を要求していたが、1,000馬力級エンジンを採用している関係上、重量増加、機体大型化になるためこれらの要求は退けられた。武装は翼内に7.7mm機銃1挺、後席に7.7mm旋回機銃1挺が装備された。爆弾は50kg爆弾4発、15kg爆弾12発であった。

 本機は陸上目標への近接攻撃を目的とするため、防弾性能にも力を入れており、エンジン、操縦席、胴体、中央翼の下面を6mmの防弾版で保護していた。さらに燃料タンクはゴム張りの自動防漏タンクとされており、主に対空砲火に対する防御を想定していたことが分かる。

 軍偵型は写真機が垂直撮影用に1基、斜め撮影用に1基が装備され、偵察用窓も追加された。襲撃機型にあった防弾装置は廃止された。爆弾も軍偵は特別装備となりその量も半減されている。1943年11月以降は、火力不足から一部の機の翼内銃を12.7mm機関砲(ホ103)に換装、さらに一部の機は旋回機銃も12.7mm機関砲に換装された。

 

生産数

 試作機2機、増加試作機11機が製作された。量産機は1940年初頭から1943年末まで生産が行われ、1944年以降は立川陸軍航空工廠で生産が行われた。三菱では試作機も含め1,472機、立川陸軍航空工廠でも1,000機近くが生産された。襲撃機型、軍偵型併せ総生産数は2,385機である。

 

 

 

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01_SIGP210
(画像はwikipediaより転載)

 

 今回紹介するのはSIGP210だ。シングルアクション、単列マガジンと古風であり、あまり有名な銃ではないが、現在特殊部隊で使用されているSIGP226に多大な影響を与えた銃であり、そのシルエットの美しさは工業製品の芸術と言っても過言ではない。

 

SIGP210(実銃)

 

 

性能(44/8)

全長 215 mm
重量 900g
口径 9mm
使用弾薬 9×19mmパラベラム弾
装弾数 8+1発
設計・開発 SIG社

 

概要

02_SIGP210
(画像はwikipediaより転載)

 

 SIGP210と呼ばれるP47/8は、1937年フランス製拳銃SACM Mle1935Aを基に研究がスタート。1943年にニューハウゼンP44/8が完成した。翌年にはダブルカラムマガジンを採用したP44/15が完成した。SIG社は軍採用を狙い軍用向けに改良したP44/16を製作したが、スイス軍に制式採用されることはなかった。

 1946年にSIG社ではP44を基に拳銃開発が再開され、翌年完成したのがP47/8である。外観はP44に酷似しているが、ロッキングシステムを採用したことなど細部は大幅に変更された。これの口径9mm、装弾数8発のものが1949年にSIGM49としてスイス軍に制式採用され、さらにデンマーク軍、西ドイツ国境警備隊でも採用された。

 スイス人気質というか、とても高い工作精度で製作された銃で民間用としてP210の名称で販売された。のちに「世界最高のコンバットオート」と評されたCZ75もこのスライドをフレームが包み込む形状等、P210の影響を大きく受けている。構造はシングルアクションで装弾数は8発。バリエーションはP210-1というように「-数字」で表す。ちなみにバリエーションはP210-1〜P210-8までさらにP210-5LSとP210-6Sというバージョンも存在する。

 生産にはかなりの手間がかかるため高価な拳銃であり、命中精度はカスタムガン並の驚異的なもので当時のハンドガンとしては随一であった。このため一部に熱烈なファンを生んだが、米国での販売価格は2000ドル以上するということもあり商業的にはあまり成功しなかった。そしてSIG社はその経験を踏まえてP220を開発することとなった。生産は1949年から2005年まで行われ、2017年からは米国ニューハンプシャー州エセクターの工場で生産が始まり現在にいたる。

 

SIGP210(トイガン)

 

03_SIGP210
(画像はwikipediaより転載)

 

 トイガンではMGCがABS製、のちにHW製で発売しており、その金型を引き継いだ(多分)CAWが現在も販売している。MGC製のものは古い設計のモデルガンなので結構ディフォルメされており、作動性能を向上させるために銃正面のバレル上に大きな隙間が作られている。CAW製のものではこの点は修正されており、現在入手できる最高のP210モデルガンといってよい。

 エアガン、ガスガンでは今は無きマルコシが1980年代後半にエアコッキング式で発売していた。当時の販売価格は1900円で押込みタイプのコッキング式エアーガンであった。グリップの仕上げが非常に美しく外観の完成度も高かった。現在は生産されていない。1990年3月にマルコシがP210-5のガスガンを発売している。ダブルアクションで所謂「割り箸マガジン」、コッキングはできないという90年前後では平均的なガスガンであった。

 それ以外で販売しているのはマルシン位だろう。マルシン製はガスブローバックで8mm、6mm共に販売されている。モデルアップしたのはP210-6で軍用モデルのようだ。組み立てモデルと完成品モデルがあり、スイスSIG社から入手した図面から正確に採寸されたモデルで現在のトイガンの中で最も完成度の高いモデルである。

 

まとめ

 

 今回は、SIGP210を紹介した。名銃中の名銃と言っていい銃であるがwikipeidaに記事が無いことに驚いた。スライドをフレームが包み込む独特の形式は名銃CZ75に多大な影響を与えた。デザインの優美さ、性能の高さ、加工の素晴らしさが秀逸な銃だ。

 

 

 

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01_九九式双軽爆撃機
(画像はwikipediaより転載)

 

 九九式双軽爆撃機とは、1940年に制式採用された日本陸軍の双発軽爆撃機である。三式戦闘機飛燕の設計で有名な土井武夫技師の設計である。航続距離、爆弾搭載量こそは少なかったものの、速度、運動性能は抜群であり太平洋戦争終戦まで活躍した。双発爆撃機でありながら急降下爆撃も可能であり汎用性の高い機体であった。

 

九九式双軽爆撃機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 17.47m
全長 12.88m
全高 4.32m
自重 4,550kg
最大速度 505km/h(高度5,600m)
上昇力 5,000mまで8分30秒
上昇限度 10,100m
エンジン出力 1130馬力2基
航続距離 2,400km
武装 7.92mm連装機銃1挺、7.92mm機銃2門挺
爆弾搭載量 300〜500kg
設計・開発 土井武夫 / 川崎航空機

 

陸軍爆撃機が航続距離が短く爆弾搭載量が少ない理由

 日本陸軍の爆撃機は、航続距離が短く爆弾搭載量が少ない機体が多い。これは、地上部隊との協同が主な任務であったことやソビエトを仮想敵国としていたことから国境付近に展開している敵を攻撃することが主眼となっていたためであった。地上部隊との協同、国境付近の敵への攻撃には長距離を飛行する必要がなく、頻繁に往復することが可能であるため爆弾搭載量も少なくても問題無かった。むしろ敵戦闘機に対抗するために運動性能、速度が重視された結果であった。

 

開発

02_九九式双軽爆撃機
(画像はwikipediaより転載)

 

 1937年12月末、陸軍は、旧式化した九三式双軽爆撃機に代わる軽爆撃機キ48の開発を川崎航空機に指示した。これを受けた川崎航空機は、のちに二式複戦屠龍や三式戦闘機飛燕の開発で有名になる土井武夫技師を設計主務者として開発を開始した。

 エンジンはハ25(1,000馬力。海軍名「栄」)を搭載。プロペラは直径2.8m3翅プロペラを採用、爆弾は全弾胴体内に収納できるよう設計されていた。爆弾倉の扉はそれまでの単純な左右に開く方式だと機体の安定が悪く、命中率が低下していた。そこでキ48では爆弾扉は二重繰り上げ方式という独自の方式を採用していた。機銃は7.7mm機銃で後上方に連装1基、前方、後下方に1挺の合計4挺が設置された(後期生産型では7.92mm機銃)。脚は引込脚を採用し、尾輪も引込式であった。

 1939年4月に設計完了、同年7月上旬には試作1号機が完成した。8月から基本審査、11月から実用審査が行われた。最大速度は480km/h(高度3,500m)、5,000mまでの上昇時間が9分、実用上昇限度は9,500m、航続距離が2,400kmという圧倒的な高性能を示した。このため審査は順調に進み、爆撃審査では苦心して開発した二重繰り上げ方式爆弾扉の効果で命中率は90%近かった。増加試作機も発注され、1940年5月11日に九九式1型双軽爆撃機として制式採用された。

 この機体設計の完成度の高さから本機は複座戦闘機キ45改のベースとなっている。キ45改の設計主務者も本機と同じ土井技師である。これに対して、米軍からの評価は、爆弾搭載量は単座爆撃機並で少なく、防御力も貧弱であるとかなり低い。事実、太平洋戦争中期以降になると陳腐化は甚だしく高性能の連合国軍戦闘機に対して損害を重ねていった。戦後は中華民国軍、人民解放軍の双方で使用されている。

 

2型甲

 1940年6月、エンジンを二速過給器付きハ115(1,130馬力。海軍名「栄21型」)に換装した性能向上型の設計を開始した。設計は1941年2月に完了したがエンジンの製作が遅延していたため試作機の完成は遅れ、1年後の1942年2月に試作1号機が完成した。最大速度は25km/h向上した他、武装も強化され、機銃の数は変わらなかったが、口径は7.7mmから7.92mm機銃に変更された。搭載爆弾もそれまでの100kg爆弾から250kg爆弾の搭載が可能となった。1943年2月、九九式2型双軽爆撃機として制式採用された。

 

2型乙

 キ66用に開発された制動板(急降下爆撃時に機体の速度を落とすための板)を装着した急降下爆撃機型で搭載爆弾も500kg爆弾の搭載が可能となった。九九式2型双軽爆撃機乙型として制式採用された。この乙型は制動板以外にも急降下爆撃用に各所に改良が加えられている。乙型をベースに後上方機銃を12.7mm機関砲に改修、機首側面に7.92mm機銃が追加された2型丙も製作されている。

 

生産数

 1型試作機は4機、増加試作機5機、量産機が557機生産されている。2型試作機は3機、2型甲は1942年4月から1944年10月まで550機が生産されている。乙型が1943年5月から1944年10月まで858機が生産されている。総生産数は1,977機である。

 

 

 

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